4月のメッセージ

2010年4月2日

南房教会 牧師 原田史郎

 

測り縄は麗しい地を示し、わたしは輝かしい嗣業を受けました。詩編16章5,6節

 

 わたしたちの生涯の中で、生き方をリセットするような時が、幾度かあります。桜咲く4月もその一つです。新学期、新年度といった新しいターム,「期」が始まるからです。志を新しく、期待と希望に胸を膨らませている若人たち思い浮かべます。 南房教会の機関誌「うみほたる」に最近、次のような巻頭言を書きました。

 

 私たちがその生涯を終えるとき、自分の一生は、良かったのかどうか、どんな風に考えるでしょうか。神さまや周りの人たちに、「ありがとう」と言って、感謝してこの世を去るのか、それとも失敗だった、と悔いと無念の思いを抱きながら、息を引き取るのでしょうか。

 詩編の記者は、「測り縄は麗しい地を示し、わたしは輝かしい嗣業を受けました」と詠います。約束の地に入ったイスラエルの民は、ヨシュアによって、各部族毎にそれぞれの土地を分有しました。緑多き肥沃な耕地のものもあれば、荒野ですが銅を産出したり、砦や交通の要の地あり、それぞれの良き地でありました。

 しかし、レビ人だけは、1平米の土地を持つことが出来ませんでした。その代り、各部族は、その地で得た収穫や取得したものの十分の一を、レビに差し出すよう、神さまが命じました。レビ人が専心、主に仕えることが出来るためでした。

 一生を振り返ってみるとき、わたしたちはとかく、自分が得たもの積み上げたものをもって、成功したとか、失敗したとか計算するのではないでしょうか。わたしが小学生のとき、学校に通う途中に近隣を圧倒するような大邸宅がありました。大きな門や、外からも分かる位の大木が林の様に広い庭を覆っていました。ところが、高校生のとき、この館の主が亡くなりますと、その栄華は急速に衰え、やがて邸宅は壊され、今は小さな住宅が密集している変哲のない風景になっています。この世の空しさを、なんとなく感じたことでした。

 しかし、「主はわたしに与えられた分、わたしの杯」(5)と言い表しつつ、生涯を振り返るとき、わたしたちが主と共に歩んだ生涯のなんと光り輝くことでしょうか。それは、決して失われることがないのです。「生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです」(ロマ14:8)と言ったパウロのことばが響いてきます。神さまはイエス・キリストによって、わたしたちひとりひとりに「信仰の生涯」という素晴らしい嗣業をくださったのです。

 

どうか、あなたによき測り縄が与えられますように、祈ります。

 

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