10月のメッセージ

2010年10月6日

南房教会 牧師 原田史郎

 

神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。

(ヨハネによる福音書3章16節)

 今日、このワードを、打とうと思っていた直前に、新潟からでんわがありました。一人の婦人からで、その方は、今、三児の母親です。でんわの内容は、彼女の長男のKくんが、日曜日に洗礼を受けました、という報告でした。Kくんは、わたしが園長をしているときに、3年保育で、在園していた子どもです。独創性の溢れていた子で、絵を描いても、ダンボールや木片で工作しても、何が独特な創造性を感じさせる子でした。聞けば、小学校6年生になったそうですが、今回、自分から「洗礼を受けたい。」と言いだして、洗礼準備会も受けて、受洗の運びになりました。幼いころから、神さまの愛を受け、イエスさまのお話を聞きつつ、大きくなったのだなあ、と感無量でした。因みに、お母さんは、Kくんが在園中に洗礼を受けています。

 わたしが聖書の言葉を、自覚的に初めて覚えたのは、表記の聖句です。中学生のときに、通学路になる桜木町駅のコンコースで、アメリカ人とおぼしき宣教師から、一冊の赤い小型の新約聖書をもらいました。本文の方は、よく分からなかったのですが、後ろの頁に、この言葉が大きく印刷されていて、「世を愛された」という、「世」のところが空白になっていて、そこにあなたの名前を書込んでください、とありました。

 愛される、ということは、誰でも嬉しいことです。わたしは、素直に名前を書き込みました。でも、そこで、何かが起こったとか、変わったということはありませんでした。

 その後、10代の終わりごろから、教会に通い始め、23歳のときに、洗礼を受けました。その間の、求道者としての歩みは、けっして一本道ではなく、紆余曲折、行ったり来たりして迷ったりもしました。しかし、わたしたちのすべての罪を担って、十字架にかかってくださった、イエス・キリスト。この方に現わされた神さまの愛を受け入れ、洗礼を受けました。今でも、あの若い日に洗礼を受けて、良かった、と思っています。

 洗礼にある誤解は、わたしは、まだ資格がないとか、良く聖書が分かっていない、というものです。資格を問われれば、おそらく生涯、天国の門の外でしょう。聖書の理解を諮問されれば、神学者でも未だ分からない所だらけです。

 でも、Kくんのように、わたしたちに働いてくださる神さまの促しに応えるとき、神さまは、必ずや、わたしたちの生涯を祝福してくださるのです。

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