12月のメッセージ

2010年12月5日

南房教会 牧師 原田史郎

この憐れみによって、高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、我らの歩みを平和に導く。(ルカによる福音書1章78,79節)

 アドベント(待降節)になりますと、教会のイルミネーションが点灯します。今年のアドベントは、11月28日(日)からで、12月25日のクリスマスを迎えるまでは、12月は、殆どこのクリスマスを待つ期間であると言ってもいいでしょう。クリスマスには、幾つかのキーワードの言葉がありますが、その一つは「光」です。

 今年も、この丘の上にある南房教会は、例年のように、礼拝堂の軒下から、牧師館の前庭を囲む柵にかけてイルミネーションを取り付けました。夕暮れに冷たい北風が吹きだす頃から9時前ぐらいまでの点灯ですが、あまり光の無い教会付近では、ひときわ目立ちます。

 最近は、一般家庭でもイルミネーションを点ける家が増えてきました。前にいた新潟のある住宅街では、その一郭が競うようにイルミネーションが輝いていました。当時、飼っていた柴犬が、年を取って昼夜逆転の生活リズムになり、深夜の散歩をするようになりました。そのとき、その住宅街を通るのですが、森閑として誰もいないのにも関わらず、わたしたちを歓迎するかのように、明るく瞬いていたのを思い出します。この館山では、イルミネーションがまだあまり普及していませんから、その分、教会が頑張っていることになります。

 以前、ある照明デザイナーが、日本と欧米の光文化の違いについて、こんなことを言っていました。「日本では灯篭のように、裸火を和紙で包み、ぼんやりともる間接的な照明を好みました。それが、戦後、蛍光灯の普及で、照明イコール明るさになってしまいました。」確かに、都会のショッピングモールに行きますと、これ以上、明るく仕様がないというくらいの照明です。

わたしたちもいつしか、そういう照明に慣れてしまって、単に明るさだけではない、明りの持つ意味合いとでもいいましょうか、その感覚をどこかに置き忘れてしまったように思います。

 光の本来の意味と役割は、闇があるが故に、そこに光の美しさ、暖かさ、美しさが出てくるものだと思います。この照明デザイナーは「昔の日本人が、お月見、蛍の光、夜桜、七夕など、静かな光に心をなごませた感覚が、段々我々の美意識から縁遠くなっているようです。」とも言っていました。このことからも、ギラギラした町の強烈な光ではなく、静かに、穏やかに、しかし、闇の中に明るさと希望を伝えるこの時期のイルミネーションは、世の光であられるイエス・キリストの到来を告げるクリスマスに相応しい光のマッセージだと思わされます。

 12月24日(金)のクリスマス・イブには、どこの教会でも、キャンドル・サービス(燭火礼拝)が、持たれます。闇を破って輝きだした光に、イエス・キリストの到来を覚え、そこに現わされた神さまのわたしたちへの深い憐れみと愛に感謝したいものです。

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