2月のメッセージ

2011年2月6日

南房教会 牧師 原田史郎

 「人々に、次のことを思い起こさせなさい。・・争いを好まず、寛容で、すべての人に心から優しく接しなければならないことを。」

(テトスへの手紙3章1,2節)

 水曜日に「聖書の学びといのりの会」では、牧会書簡と呼ばれるテモテ書とテトス書をこの数カ月学んできました。改めて精読しますと、新しい発見が幾つもあったのですが「優しく」というパウロの勧めが、話題になりました。キリスト者の品性の一つに、優しさがあるということなのです。そこで最近一寸した優しさに感じたことをお話します。

 以前お伝えした教会に捨てられた子猫のことです。最近まで、誰か分かりませんが、無責任なことをする飼い主がいるものだ、困ったものだと、思っていました。状況から推測して、礼拝堂の屋根(ひさし)の上に放りあげていったと、考えられるからです。前の教会でも、何度となく、このようなことがありましたから、またか、と思いました。

 1月、勝浦の別荘に来られたKさん御夫妻、それに、わたしたしと共通の友人の姉妹と、Kさんが稲村岬で釣ってきた黒むつと金目鯛の煮つけやお刺身があるので、新年会をしたいので来ませんか、とお誘いを受けました。その食卓で、何気なく猫談義になりました。K御夫妻は、血統正しき、猫を二匹飼っておられます。この猫ちゃんたちは、人好きで、診療所の待合室に入ってきて、患者さんの膝の上に乗るのだそうです。友人の姉妹は、今はマンション住まいで動物を飼えませんが、かって一軒家住まいのときには、何匹も、雑種も捨て猫もウエルカムで飼っていたことのある方です。

 この三人の愛猫家が、教会の子猫の話を聞いて、こんなことを話されました。子猫は、捨てられたのではなく、親猫が咥えてきたのではないか、というのです。猫は、子どもを産むと、人間に取られると思って、子猫を隙間や押し入れの奥など、人間の手の届かない所へ、隠してしまうことがあるそうです。

 これを聞いて、思い当たることがありました。子猫が、何処にいるのか分からないまま、昼夜啼いていたとき、親猫と思しき猫と、その子猫とよく似た雌の子猫との2匹が教会のひさしの木の下にいつも来ていたのです。木をよじ登り、屋根の上にのったり降りたり、していました。

親は子猫を咥えて、高い廂の雨樋に隠します。ところが子猫は、雨樋を伝って、木の葉止め隙間をくぐって、縦の樋の中に入ってしまったのです。それで心配で、毎日来ていたのでしょう。しかし、子猫が牧師館で育てられ、可愛がられているようだと分かったのでしょうか、ある日からぷっつりと姿をみせなくなりました。親心に、安心したのでしょう。

 親が子を思う優しさ。主キリストは、そんな思いを持って、わたしたちを見守り、導いてくださるのではないかと、思います。猫の親子の優しさに、そんなことを思いました。

この子猫、ポピーと名付けられ、わたしが付けた金の十字架を輝かせて、走っています。

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