4月のメッセージ

2011年4月3日

南房教会 牧師 原田 史郎

「いつも喜んでいなさい。」(Ⅰテサロニケ5:16)

南房教会の機関誌「うみほたる」に、古谷順子さんが、いつも点字の聖句を書いてくださいます。3月末に発行した同誌で、姉はこの表題の聖句を打たれました。

この聖書の原文は、たった2語、「パントテ(いつも)」「カイレテ(喜んでいなさい)」です。「いつも」というのは、「どんな時にも」ということです。私たちの生涯には、喜びの時もありますが、喜べない悲しみの日も少なくありません。それなのに、何故、聖パウロは「いつも喜んでいなさい。」と勧めるのでしょうか。折から、東北関東大震災の惨状が連日、報道されています。愛する家族を失い、全財産を津波にさらわれた方々の悲惨を思うとき、そのようなことを被災された方々には勿論のこと、わたしたち自身にも、とても言えるものではないと思います。

しかし、同じような状況が16世紀、プロテスタント教会の生まれる時にあったことを思い起こします。その時に作られた「ハイデルベルグ信仰問答書」は、次の言葉から始まります。

「あなたが生きているときも、死ぬときも、あなたのただ一つの慰めは何ですか。」この答えは、こう応じます。「生きているときも、死ぬときも、わたしのただ一つの慰めは、わたしが自分のものでなく、真実な救い主イエス・キリストのものであることです。」

この時代、プロテスタントの信仰を持った人々は、激しい迫害にさらされました。逮捕、入獄と拷問、全財産の没収、名誉や地位の剥奪、そして追放や処刑された人々が多くいました。その悲しみと苦しみの中で、この問答書は作られたのです。

ここで使われている、「慰め」を意味する言葉は、「信頼する」「信用出来る強いものがある」と言うことと関りがあります。すなわち、この問答書は、こう問うてもいるのです。

「生きているときも、死ぬときも、あなたを支えているものはなんでしょう」。あるいは、「生きているときも、死ぬときも、何があなたを強くさせますか」(A、ラウハウス)

「喜ぶ」が使われている他の箇所があります。「学者たちはその星を見て喜びにあふれた。」(マタイによる福音書2:10)彼らは、誕生した救い主イエスの許へと導かれました。それは、暗闇に満ちた絶望の時代の中で、希望の発見でした。わたしたちもまた、イエス・キリストを見上げ、信頼し、祈る時、この喜び、希望を持ち、生きる力、また勇気を与えられるのです。

それは、わたしたちをこの世に生まれさせ、生かし、成長させて下さったお方、神さまがおられると、聖書は告げるのです。神さまは、わたしたちの誰ひとりとして、生きる意味と目的を与えられないで、決してこの世へと生まれさせないお方です。換言すれば、わたしたちが、この世に生まれ、生きているという事実は、たとえ、今、あなたがうちのめされ、弱くとも、あるいは将来の希望が見えなくても、あなたには、あなたでなければ成しえない使命と目的がこの世界にある、ということなのです。

このわたしを超えた神さまの心とご計画に、あなたの心の目を向けてみませんか。「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです。」と聖書は語ります。「神にお任せする」と言うことは、あなたのことを心にかけてくださる神さまに、あなたの重荷を委ねて、荷を軽くすることであります。そして、あなたの行く末を、神さまのご計画に信頼して、望みを失わないと、言うことなのです。

主の平安が、あなたの上に豊かにありますように、祈ります。

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