11月のメッセージ

2012年11月4日

南房教会 原田 史郎

「自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように払ってやりたいのだ。」 (マタイによる福音書20章14節)

主イエスが話された話の中に「ぶどう園の労働者」のたとえ話があります。ぶどう園の主人が、夜明けに一日一デナリオンの約束で労働者を園に送りました。朝の九時に行きますと、何もしないで広場に立っている人がいたので、同じように一日一デナリオンで雇います。十ニ時と三時にも、同じようにしました。そして、夕方の五時にも仕事のない人を雇います。

 さて、一日の仕事が終わり、最後に雇われた者から、一日一デナリオンの賃金が支払われました。これを知って、早くから働いていた労働者が主人に不平を言いました。わたしたちは、早くから働いているのに、最後の数時間しか働かなかった者と同じなのは、不公平だという訳です。

 これに対して主イエスは、「自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。」と言われたのです。

 皆さんは、このたとえ話をどう思われますか。後にジョン・ラスキンという経済学者が、この話から『この最後の者に』という本を十九世紀に書きました。わたしは、学生時代、経済学の授業で大熊信行教授の講義を受けましたが、このラスキンの批判から入っていったのを鮮明に覚えています。近代経済学では、このようなことをしていては、経済そのものが成り立たないからです。

 しかし、主イエスのたとえ話がわたしたちの常識的な経済感覚に対して、明らかに不合理的なものであるところに、このたとえ話の真理とメッセージが隠されているのです。

 話の視点を少し変えてみますと、わたしたちの生活は、ほとんどが経済的な合理性で成り立っています。人間の欲求、外的な幸せの基準は、古代ローマ時代から「パンと安全」です。内的には、ギリシャの哲人たちが良いとした「アタラクシア」(平穏)でしょう。平均的な人間にとって、この両面は切り離せない関係に在ります。外が破綻すれば、心の平穏はありません。また心の平穏が破綻すれば、パンと安全がいくら保障されていても、幸せとはいえません。

けれどもわたしたちの社会では、外的な幸せの基準であるパンと安全は、しばしば侵害されてしまうのです。その中で、弱い立場にある人の心の平穏も失われていくのです。

 朝早い者、午前の労働者は、よく若い人にたとえられます。そうであれば、夕方の五時の労働者は、黄昏を迎えた老人が想定されます。この読み方は、一つの解釈ですが、ここに老人だけでなく、若い人も含めて、この格差社会から取り残された人たち、社会的に無視され、顧みられない弱い立場の人々を考えることが出来ないでしょうか。

 主イエスのこのたとえ話は、わたしたちの経済的な合理性以前に、或いはその根底に神さまの慈しみに満ち眼差しが、わたしたちの日常の活動にそそがれていることを示唆しています。 わたしたちがこの社会や世界で、たとえ最後の者であっても、キリストの思いと導きは、いつも豊かなのです。新しいお互いに助け合い、もう一度、新しい思いで人生に出立するために、わたしたちは、虚心に聖書に聞くことから始めたいと思います。神さまの無限の愛に気付いていただけるように。

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