5月のメッセージ

2013年5月5日

南房教会 原田 史郎

「大勢の人が、イエスの周りに座っていた」

(マルコによる福音書3章32節)

「食わず嫌い」という言葉があります。食べる前から、その食材の色彩や形状を見て、これは不味いに違いないとか、食べられないと決め付けてしまうのです。わたしは、偏食のほうではないと思っていますが、それでも貝類が苦手です。松江にいた頃、宍道湖で取れる蜆(しじみ)の味噌汁を毎日、朝食にとっていましたが、貝殻の中身はどうしても口にする気になりませんでした。でも、身には、「オルニチン」という腎臓に良い成分がいっぱい詰まっていて、そのエキスを抽出したサプリメントもあるようです。

教会に入る十字路に、最近「たてやま」という魚介類専門のレストランが開店しました。新鮮な食材とボリュームいっぱいで、しかも安いので、なかなかの賑わいを見せています。そのレストランの看板の横をいつも通るのですが、その看板に「貝、食べ放題」と大きく出ていて、食べ放題食べる位、貝が大好きな人もいるものだ、と何か不思議な気がします。

さて、こんなことを書くのは、キリスト教や教会に対しても、少なからず「食わず嫌い」の人々がいるからです。わたしたち日本人は、大方の人が「無宗教」を標榜していますから、信仰を持っている人、教会に行く人は、何か特別な人たちで、自分たちと違う人種のように見てはいないでしょうか。ですから、キリスト教に興味があっても、なかなか教会に足を踏み入れたり、聖書を読んでいることを表明したりしないのです。

主イエスが家で話されているとき、「イエスの母と兄弟たちが来て外に立ち、人をやってイエスを呼ばせた(マルコ福音者3章31節)」とあります。彼らは、家族でしたが、家の中に入ってこないで、外に立っていたのです。一方、家の中には「大勢の人が、イエスの周りに座っていた(同32節)」のです。この人たちは、主イエスの話を直接聞き、主のお声や息吹を感じただけではなく、そこにいる人たちと共感し、心を燃やした人々です。この人たちが悲しみや憂いをもっていたならば、彼らの重荷は、主イエスと共にいる人たちと分かち合うことによって軽くされたことでしょう。もし喜びがあれば、その喜びはお互いに分かち合うことによって、ますます大きな喜びに増えていったことだと思います。

わたしたちは、神さまが招いてくださる神の国に、主の兄弟たちのように、外に立って

見ている傍観者や評論家ではなく、主の周りに座って、神の国の惠と祝福に与る者となりたいと思います。

 貝が苦手だったわたしですが、その最たるものは「かき」でした。母のつくった「かきのミルク煮、牡蠣鍋」など、成人するまで一切口にしませんでした。ところがある日、会社の二次会で行った店で、揚げたてかきフライを口にして、こんなにもおいしいものであったのかと、目が覚めた思いでした。「食わず嫌い」から、抜け出ることが出来る人は、幸いです。

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