6月のメッセージ

2013年6月8日

南房教会 原田 史郎

「朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた」

(マルコによる福音書1章35節)

 

 あなたは、朝起きたとき、一番に何を考え、何をされますか。若いころ、朝はとにかく眠く、ぼやーっとした中で洗顔をして、朝食を摂り、時間に遅れないように家を飛び出していったことを覚えています。そのうちに、少し余裕が出てきますと、その日のスケジュールや仕事の段取りを考え、新聞も読み、さらに通勤の電車の中では、イヤホーンで英会話を聞いたりしました。

 しかし、教会に行くようになり、信仰をもってから、朝が変わってきました。今までは、自分と自分を取り巻く世界での過ごし方しか考えなかったのですが、まず、神さまに心を向けて祈り、その日の導きと力をいただいてから、一日をスタートするようになったのです。そして、この習慣からいただく恵みは、本当に大きなものがあります。

キリスト者の生活にとって、祈りと聖書は欠かせないものです。それは、よく呼吸と食物にたとえられます。呼吸をしないで生きている人はいません。食物を摂らないで、命を保つことは出来ません。それと同じように、祈りをしないと、信仰の霊的な命が細ってきて、やがては霊的な死に至るのです。自分には、信仰があると自負していても、霊的に死んだ状態のキリスト者は多くいるのです。一日も早い蘇生が必要です。聖書を読むことにも同じことがいえるでしょう。

祈りは、神さまとわたしたちをつなぐライフラインのようなものです。どんなに整備された立派な水道や給水装置をもっていても、蛇口が豊かな水源、貯水池に繋がらなければ、水は出てきません。ですから、朝起きた時、本当に短い時間でも、まず神さまに祈るならば、そのとき、わたしたちと神さまのライフラインは繋がるのです。朝、このラインを繋げておけば、後は安心して一日の行動に移れるのです。

成熟したキリスト者は、朝から、時には午前中のしかるべきときに、「静思のとき(クワイエット・タイム)」とよばれるときをもちます。聖書を読んで、祈りのときをもつのです。このとき、日本キリスト教団の「信徒の友」の巻末にある「日毎の糧」を読んで、祈る人もいるでしょう。「日毎の糧」には、その日読む聖書の箇所と、その内容の短いメッセージが書かれています。それは、大きな恵みとその日を生きる力となります。

キリスト者でない方たちにとって、同じことを求めるつもりはありません。しかし、豊かな恵みとその日を生きる力をいただける、こんな素晴らしいことを、キリスト者だけに独り占めさせておくのは勿体ないと思います。主イエスでさえ、朝の祈りのときをもつことによって、一日の激しい超人的な活動をされました。朝起きて、まだ心がまっさらのときに、一節でも聖書を開き、一言でも神さまに祈るならば、必ずや、わたしたちの一日の過ごし方に革命が起こるでしょう。

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