7月のメッセージ

2013年7月1日

南房教会 原田 史郎

「心が挫けるとき、地の果てからあなたを呼びます。高くそびえる岩山の上に、わたしを導いてください」(詩編61篇3節)

 最近の新聞に、今の若い世代は、「悟りの世代」だということが出ていました。どうしてかといえば、この世代の若者は、バブルがはじけた後、いわゆる失われた10年といわれた社会の中で育ちました。高度成長期は、とっくに過ぎ、就職難や格差社会の中で、何かを望もうにも手に入れることが難しい時代になっていました。そういう中で、あまり高い目標や欲望は持たず「あるものをもって、こと足れり」とする悟りが、身についているのだそうです。ですから、恋愛も結婚も、外国留学や海外旅行、新しい車やレジャーも、それほど渇望がなく、ほどほどで満足するというのです。

 このような悟りは、昔は良寛さんの五合庵や、或いは修道院でも行かなければ身に付かない、宗教的ともいえる境地です。この世の飽くことなき欲望を殺ぎとって、晴耕雨読に通じる、老人の境地でもあります。

  しかし、それでは何か寂しい気がするのは、わたしだけでしょうか。人生を四季の樹木にたとえれば、春の若木のときを経て、夏に大きく枝を伸ばして実をつけ、そして秋に豊かに熟した実を収穫する。その後、冬の到来とともに、静かに葉を落とし、やがて訪れる春の復活のときを待ちつつ、深い眠りに入ります。それが、実を落とした晩秋に早くも入ってしまうのには、神さまが備えてくださった、大きな可能性をうずもらせてしまうことにはならないのかと、心配です。

 6月の中旬、新潟にある敬和学園高等学校の創立46周年記念礼拝に招かれて、高校生たちに聖書のメッセージを取り次ぎました。その際、校長の小西二巳夫先生から、敬和の歴史とともに、今高校生に伝えたいメッセージをお願いしますと、要請されました。そのとき、わたしの脳裏にひらめいたことは、「恵みの高嶺を目指して」という言葉でした。

 詩編61篇の詩人は、問題の前で、「心が挫ける」経験をします。心が挫けると、わたしたちは意欲を失い、自信喪失のために進む方向さえも見失ってしまいます。しかし、詩人は「神さま、わたしを恵みの高嶺へと導いてください」と、祈るのです。ここの山は「岩山」です。パレスチナ岩山は、しばしば旅人や巡礼者の行く手を阻み、道は険しく、深い谷があったりして障壁の山でもありました。 でも、それだからこそ、山に登り「高くそびえる岩山の上に」立ったとき、そこで旅人は、広い視野の中で、自分のこれから進む道、展望を持つことが出来るのです。

 若いときの特権は、高い志を持つことです。高校時代は、自分探しの時代といわれます。神さまがわしたちに与えようとしておられる使命を祈り求め、そのビジョンの達成に踏み出そうではありませんかと、話したことでした。このメールを開いてくださった若いあなたにも、神さまはご計画をお持ちです。どうか「恵みの高嶺を目指して」まず祈り、瞑想し、熟考し、そして、与えられた夢の実現に一歩足を踏み出していただきたいと、心から思います。

もどる