3月のメッセージ

2014年3月9日

南房教会 原田 史郎

「神の国を何にたとえようか。それは、からし種のようなものである」

マルコによる福音書4章30節

 

このメールを受信されている人は、何らかのかたちで教会、またはキリスト教に関わりのある方だと思います。でも、教会に行くとなると、なかなか機会がなかったり、時間があっても決心がつかなかったりして、そのままになっているという人も多いのではないでしょうか。そういう状態であるとき、わたしたちの位置は、いわゆる教会の周辺にいると、考えられます。

しかし、主イエスのからし種のたとえ話は、このような考え方に、挑戦しているかのようです。主は「神の国を何にたとえようか」、「それは、からし種のようなものである」と言われました。「神の国」とは、神さまの支配という意味で、神さまの愛と義(ただしさ)が支配している、慈しみの満ちているところです。それは、救い主イエスが、そこにおられることによって起こる、恵みの支配なのです。

からし種のたとえは、種の小ささと、幹と茂った葉の大きさとの対照です。からし種は、パレスチナの農夫にとって、一番小さな種でした。「黒カラシの種は、直径0.95から1.6ミリ、重さ1ミリグラムの大きさである。白カラシの種はその二倍で、成長すると平均の高さは1.5メートルで、ガリラヤ湖沿岸地域では3メートルに達するものがある(『BHH聖書大事典』)」といわれます。

神の国が成長するといいうことは、教会が大きくなることでしょうか。韓国や米国には、何万人もの人が礼拝し、聳え立つような大教会堂をもっている教会があります。でもそれが神の国の成長であるすれば、迫害下にある中国の家の教会やネパールの小さい教会は、神の国が小さいままの、まだ成長していない教会ということになります。

最近、トレント・マクシ氏(米国アマースト大学准教授)の「21世紀の日本のキリスト者は先人から何を学ぶべきか(「キリスト新聞」3304号)」という文章を目にしました。同氏は「キリスト教が近代日本の文化、社会、政治などに及ぼしてきた影響がその信徒数に見合わず、大きい」と指摘しています。日本のキリスト者数は、今や1パーセントをきっているといわれますから、信徒数に較べると、その影響は反比例しています。どうしてそのような影響を与えたのか、ということがマクシ氏の論点でした。わたしがすんでいる館山は、教会の数や力からいえば、本当に小さなものです。しかし、ここ数年、内村鑑三や新渡戸稲造の講演会には、新聞が取り上げて記事にしたこともありますが、多くの人たちが集いました。内村は不敬事件の後、房総に来て竹岡に教会を残しています。教会は、神の国の一面を現す象徴的な存在ですが、主イエスの神の国は、既にもっと大きく幹を伸ばし、葉を茂らせているのだと思います。このように考えるとき、教会の周辺と思っていたところが、実はそこにも神の支配や影響が及んでおり、神の国が訪れているのです。主イエスがすでにわたしたちの傍に来ておられることを覚えられるなら、なんと幸いなことでしょう。

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