9月のメッセージ

2014年9月7日

南房教会牧師 原田 史郎

「イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。「ザアカイ、急いで降りてきなさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」

ルカによる福音書19章5節

 

最近、話題になった本のひとつに『前田敦子はキリストを超えた』(ちくま新書)があります。わたしは、正直のところAKB48のメンバーの名前が、なかなか覚えられません。

「南房教会こども聖書会」の中高生たちが見ていて、たまに話題になるので、努力して彼女たちが出ている番組にチャンネルを合わせますが、最後まで見るのは忍耐がいりました。でも何故か、リーダーの前田敦子さんの名前と顔だけは覚えていて、ある日、NHKのドラマに出演しているので、女優として独立したことを知りました。この程度の知識ですから、アイドルオタクの人たちの感性から見れば、なはだしい距離感があるといいますか、もう別世界の異人種のようだと思います。という前提の上で、この本の「前田敦子」と「キリスト」というタイトルに興味を持ちました。そのようなとき、先日「キリスト新聞」が、著者で社会学者の濱野智史さんのインタビューを掲載していて、何故若者が、あれほどまで彼女たちに熱狂するのかが少し分かるようになりました。

幾つものポイントがあるのですが、そのひとつに<レス>があります。濱野さんによれば「<レス>はもっと分かりやすくて「神の声が聞こえる」のと近い感覚ですね」というのです。「もっと分かりやすくて」というのは、<ヲタゲイ>というものがあって、これはコンサートなどでファンが繰り出す踊りや掛け声の一種である「ケチャ」で、間奏などで、ファンが前の方に集まって踊るような仕草をすることです。それは「踊りをささげているような、パワーをもらっているような、その光景は本当に宗教的としか言いようがない」と言うのです。

大分前のことになりますが、わたしは、ロスアンジェルスにあるバィンヤード教会の午後の礼拝に出席したことがあります。若者たちが大勢集まって来るので有名な教会です。その礼拝は、ジーパン姿の牧師がギターをもって登場し、歌いながら、聖書の言葉を間に入れ、それに応えて会衆は立ち上がって、手を振り上げ体を揺らして歌います。重々しい説教壇やオルガンはなく、ピアノやドラムで、アップテンポのゴスペルやワーシップソングを繰り返し歌います。その日の午前に、スーツ姿の会衆と共に、伝統的なバッハ、ヘンデル調の荘厳な礼拝を守った後だけに、同じキリスト教でも、こんなにも違いがあるのかと、驚いたことでした。AKB48のオタクたちが、踊る<ヲタゲイ>は、あの熱気溢れるビンヤード教会の礼拝とそっくりです。

この<ヲタゲイ>より分かり易いのが<レス>です。これは「ステージ上に複数のアイドルがいて、普通は一方的に観るだけなんですが、曲の合間に客席を指差す瞬間がある。そのときに、いかにたくさん目を合わせられるかを競うのが<レス厨>と呼ばれる種類のドルヲタ(アイドルオタク)です。信仰の対象からレスをもらうというのは、緒越する存在から「選ばれる」感覚」だと、濱野さんは言います。

アイドルをめぐるフアン、オタクは、その現象として、宗教的な構造を持つとともに、まさに「アイドル」はその言葉の意味通りに「偶像」なのです。

キリストがエリコの町に入られたとき、徴税人の頭で金持ちのザアカイがいました。彼は、その仕事柄もありますが、無慈悲でもあったようで、町の人たちに「あの罪深い男」と嫌われていました。その上、背が低い彼は、評判のキリストの一行を一目見たいと思っても、人々に遮られて見ることが出来ませんでした。そこで彼は、先回りして、道端のいちじく桑の木に登り、キリストを待ちます。

「イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。「ザアカイ、急いで降りてきなさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」と言われました。この「見上げる」という原語は「アナブレポー」という言葉で、他に「見えるようになる」「視力を回復する」という意味があります。キリストは、大勢の群衆に囲まれながらも、いちじく桑の木に登っていたザアカイが見えたのです。漠然と見えたのではなく、キリストの目にはっきりとザアカイの孤独、魂の渇き、救いを求める叫びが、見えていたのでした。

このときの、二人の立ち位置は印象的です。神の子でありたもう主が地面の低い所に立ち、罪びとのザアカイは、キリストを見降ろす木の上の高い所にいます。主は、舞台の上の高い所からわたしたちを見おろされません。卑しい罪びとであるわたしたちよりも更に低い所に立たれ、わたしたちに目を留め「わたしのところに降りて来なさい」と招かれるのです。

 このキリストの言葉を聞いたとき、ザアカイの中で何かが変わりました。それは「緒越する存在から「選ばれる」感覚」でありましょう。

 多くの若者は、この「緒越する存在」をおそらくAKB48に代表されるような、その人をしびれさせるようなものに求めているのではないかと思います。わたしは、それがいけないとは思いません。何故なら、だれでも若い青春の日々に、憧れ、しびれ、胸を高鳴らせた経験があるからです。それは、その後の、その人の歩みを形造ったことでもあります。

 しかし、それらが「偶像」ではなく、「真の緒越する存在」であるかどうかということは、決定的に重要なことであると思います。コンサートがどんなによくても、その熱気は、やがて醒めることでしょう。しかし、「真の緒越する存在」に出会い、それに見つめられ、選びの声を聞くとき、そこから今までと違う全く新しい出発が始まるのです。アイドルは、それを見出すための、そのことに気付かせてくれるマイルストーン(里程標)なのかもしれません。

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