10月のメッセージ

2014年10月1日

南房教会 原田 史郎

 

「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者は、開かれる」

                    マタイによる福音書7章7~8節

 

日本のキリスト者の数は、プロテスタントの宣教が始まった明治以来、1パーセント前後といわれます。それはかつて、ザビエルが来日し、宣教したときには、一説によると推定約20万人位の切支丹がいたという時代を考ますと、不思議な気がします。今、NHKの大河ドラマで「軍師、黒田官兵衛」が高山右近の導きによって入信した話の運びになっていて、切支丹の増加が、自分の言うことを聞かなくなることを恐れた独裁者秀吉の猜疑心をかき立てます。切支丹20万人説を考えれば、信長が手を焼いた石山寺の一向一揆を思い起こした秀吉の、切支丹禁止令の原因であったのかもしれません。

その後、徳川三百年の壇家制度の徹底によって、邪教とか外国の宗教とされたキリスト教は、一時的なブームを除いて少数派として歩んで来ました。

しかし、明治以降、日本の近代化の過程で、この少数のキリスト者たちが日本の政治や文化に与えた影響はまことに大きなものでした。新渡戸稲造、内村鑑三、田中正造といった人たちの名を上げるまでもなく、その後の昭和に至るまで、日本の良心として「地の塩、世の光」としての役割を果たして来たのです。

「日本では、どうしてキリスト教は伸びないのか」というテーマは、宗教学者たちが長年研究し続けてきたものですが、わたしは、むしろ「この日本という異教国で、どうしてキリスト者になったのか」というテーマをもっと、取り上げて欲しいと思います。

先月、「手のぬくもりしみた」「軍国エリート キリスト教の道究める」という大きな見出しで、大木英夫師(85歳)の証言が、毎日新聞の三面に掲載されていました(9月23日 朝刊)この記事は、戦後70年に向け戦争の記憶を活字や映像に残す同新聞社とTBSテレビの共同プロジェクト「千の証言」の一つです。大木先生は、ピューリタン研究の第一人者で、わたしが神学校に在学中、学部で組織神学やキリスト教社会倫理学を教わり、大学院では神学特講やゼミで、スイスの神学者カール・バルトを読みました。そのような関係で、卒業に際し、バルトの『教会教義学』から、「カール・バルトの教会論の一断片」という修士論文の指導教授として指導していただいたことがあります。数年前、キリスト教文化功労者として、銀座の教文館で表彰式があり、ひさしぶりにお会いして、記念撮影をしたことでした。

大木英夫師は会津の地主の家に生まれ、兄が上海で戦死して、靖国神社合祀の祭事に母と参列し軍人を志しました。陸軍幼年学校に進み、朝の宮城遥拝と軍人勅語暗誦で始まる一日を過ごし、帰省列車の中でも直立不動を通す軍人精神の徹底ぶりでした。

8月15日の敗戦、16歳の最上級生であった大木青年は、谷底に突き落とされ「何故、生き延びるのか」と苦しんだそうです。帰郷していた晩秋、キリスト教社会運動家の賀川豊彦師の集会に出席しますが、その集会で賀川が、大木青年の頭に手をのせ、祈りました。「暗い帰り路、不思議な暖かい気持ちに包まれた」といいます。翌年、賀川に身元保証人を頼み、大学に進み、教会に出入りするようになりました。「ふらふらするな。全身をささげよ」という教会で師事していた神学者から一喝されて、神学校行きを決心、牧師への道を踏み出したのでした。

今は、高齢で存命の方も少なくなった大木師のような旧軍人は、わたしたち世代が若かったとき、まわりに多く居られました。わたしが神学校に進むとき、大きな影響を受けたK師も、かつては霞が浦の予科練出身の方で、やはり敗戦によって、天皇陛下のために一身を投げ打つ覚悟が根底から崩壊して、一時、共産党に入ったりしましたが、敬虔なアメリカ人の軍属に出会い、献身して神学校に進まれました。

1945年(昭和20年)に若い日を迎えた人たちには、敗戦という歴史の転換は、同時に自分の生きる意味を問う契機でもあったのです。このことは、神学校に行く、行かないは別にしても、「何故、わたしは生るのか」という人生の根本を考える問いを持つことが、

キリスト教との出会いに大きな役割を果たしていることが分かります。今日、日本では、敗戦のような大きな出来事こそありませんが、行き詰りを迎え、全てが不確かで、明日何が起こるのか分かない不透明な時代です。それだけに、この時代にあっても「何故、わたしは生るのか」と、自分の胸に問い掛けることは、昔も今も少しも変わることがない、とても大切なことだと思います。

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