11月のメッセージ

2014年11月2日    

南房教会 原田 史郎

 

「彼らが探し求めさえすれば、神を見いだすことができるようにということなのです」

使徒言行録17章27節b

 

 この言葉は、使徒パウロがアテネのアレオパゴスでギリシャ人たちに語った言葉です。「探し求めさえすれば、神を見いだすことができる」ということは、どのように神を見いだせるのか、と模索している現代のわたしたちにとって、大きな励ましです。このことについて、三つのことを考えてみましょう。

 第一は、神は、神が造られた天地万物、自然の中に神の創造の業を見ることができるということです。優れた陶器や磁器を見ることによって、わたしたちはそれを創作した名工や匠の存在を知ります。パウロは、ローマの信徒へ宛てた手紙の中で 「世界が想像されてからこの方、人々は、天地や神様がお造りになったすべてのものを見て、神様の存在とその偉大な力をはっきりと知っていました(同書1章20節、リビング・バイブル訳)」といっています。わたしたち人間は、実は「神の存在」と「神の偉大な力」を知っているのだ、というのです。人間を超えた存在や力を知りながら、そこに神を認めない罪と不信仰がわたしたち心を曇らせてしまっているのです。

 宇宙の成り立ちを研究している欧州の原子核研究所が、2012年「ヒックス粒子」を発見しました。これによって、標準模型が予言した17の素粒子が揃いました。それでは、この宇宙の成立が分かったかといえば、わずか5パーセントしか分かっていないといいます。残りの95パーセントを占める物質や力(エネルギー)は全く分からないのです。わたしたちの世界は、原子という微細な粒で出来ていて、それが固定したり動いたり、またその組み合わせによって多様な物質や力を生み出しています。でも宇宙規模で見ると、それ以外の、人間にはまだ「分からない何か」が占めていて、しかもそこには「何か分からない力」が働いているのです。その「何か」が分からない限り、回転する銀河の回転速度を説明できないし、また、宇宙の膨張が急加速しているのですが、そこにもこの「何か分からない力」が働いていると考えられるのです。この何か分からない物質や力を、科学者たちは、「暗黒物質」とか「暗黒エネルギー」と呼んでいますが、その謎をうめる「超対称性粒子」といったものがあるのではないかともいわれています。でもノーベル物理学賞を受けた南部陽一郎氏は、この粒子の存在に否定的で、新しい理論を構築することを提言しています。

 宇宙から見れば、たったの4から5パーセント程度の認識にしか生きていない人間は、原子の世界をこえる95パーセントの世界に、「神の存在」と「神の偉大な力」に畏れをもつことは、きわめて自然なことだと思います。その思いは、決して科学的探究と矛盾するものではないでしょう。

 第二に、神の存在と働きは、わたしたち一人一人の人生や生活の中に見ることが出来ます。聖書の神は、イスラエルの民に、ご自身を「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である(出エジプト記20章2節)」と言い表されました。モーセに率いられた民が、エジプトを脱出するとき、葦の海(紅海とも呼ばれた)に行く手を阻まれ、立ち往生します。そのとき、背後からエジプトの軍勢が襲いかかってきます。パニック状態になった民に、モーセが杖をもって、祈ると、夜もすがら激しい東風が吹き、水を二つに分けましたので、民はその底を通って対岸に渡ります(出エジプト記14章22節)。ところが、追ってきたエジプト軍は、海水が元の場所に流れかえり、ファラオの全軍は壊滅してしまいました。

 この奇跡を、どのように理解、解釈したらよいのでしょうか。素朴で、一番素直な読み方は、聖書の言葉通り、神のみ手の介入があって、超自然的な力が働いたという理解です。だが、それでは納得しない合理的な説明を求めて、多くの仮説があります。たとえば、その一つに、紀元前15世紀に、エーゲ海のサントリニ島の火山が爆発して、その影響で、北の地中海側にあったシルボニス湖に津波が起こったという説です。津波前の引き潮のときにイスラエルの民が渡り、エジプト軍が渡渉しようとしたときに、大津波が襲ってきた、というのです。 この考えによるならば、イスラエルが葦の海を渡ったことは、奇跡でも何でもなく、たまたま幸運にも自然現象が、良い方向に働いたということになります。

 しかし、イスラエルは、そのようには考えませんでした。彼らは、それが自然現象であったとしても、その巡り合わせを偶然とも、単なる幸運とも考えず、そこに神の摂理、主の大いなる彼らに対する守りと導き、すなわち救いの業として受け止めたのです。それ故にこそ、イスラエルの神は「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国から導き出した神である」と告白されるのです。

 わたし自身、比較的平穏な歩みをしてきたように思いますが、それでも、数回、死に直面したことがあります。もし、そのとき神の守りがなければ、いまの自分は存在しなかったでしょう。おそらく、そのような経験は、多くの人がもっていることではないかと思います。単なる偶然の連続の中に生きているのか、それとも、心の目を開いて不思議な守りと導きを、見えないお方に対して、畏れの気持ちで受け止めて行くのか、それは、わたしたち一人一人が、真剣に考え、観相すべきことではないでしょうか。(次月に続く)

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