12月のメッセージ

南房教会牧師 原田 史郎

                          

「彼らが探し求めさえすれば、神を見いだすことができるようにということなのです」

使徒言行録17章27節b

(1)

  この言葉は、使徒パウロがアテネのアレオパゴスでギリシャ人たちに語った言葉です。「探し求めさえすれば、神を見いだすことができる」ということは、どのように神を見いだせるのか、と模索している現代のわたしたちにとって、大きな励ましです。このことについて、前月に続いて、考えてみましょう。

 パウロは、神の存在をわたしたち人間の側から、探究する可能性について、ギリシャ人に語りました。パウロは、広場にいたエピクロス派やストア派のような哲学者ではありません。彼は哲学的な素養も豊かでしたが、その本来の役割は、キリストの使徒としての宣教者です。ですから哲学的な思惟(考えること)をもって神の存在を明らかにするのではなく、人間の営みである思惟を超えて、神の側からわたしたち人間に、すなわち神ご自身が自らを明らかに開示される(啓示)メッセージについて語ろうとしたのでした。

 そして、使徒はこの神の存在と働きを「先にお選びになった一人の方によって」という言い方で、明らかにしようとしました。だが、この曖昧な説明は、さらに復活の話に続くと、彼らの失笑を買い、パウロのアテネ伝道は失敗であった、といわれるようになりました。  

 しかしこの哲学的な思惟による探求と、宗教的な啓示の受容による真理(神)の認識、すなわち聖書が証しするイエス・キリストによって神(真理)を現わすという違いこそが、キリスト教信仰のポイントであり、哲学との分水嶺であるのです。ですから、神を見いだせるか否かの究極の選択は、神の啓示である聖書の使信(書かれた言葉)とイエス・キリスト(人となった神の言葉)を受け止めるかどうか、という選択にならざるを得ないのです。

 今月は12月、クリスマスです。イエスの降誕を報告しているルカによる福音書には、わたしたちにこの選択を問い掛けている、興味深いエピソードが書かれています。このエピソードについて、南房教会のクリスマス礼拝で語られるメッセージを次に添付しましたので、少し長くなりますが、お読みくだされば幸いです。

 クリスマスの祝福と神さまの平安が、あなたの上にありますように!

                        

(2)

「喜びを迎える場所がありますか」  ルカによる福音書2章1~14節

 「そのころ皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録せよとの勅令が出た」とルカは書き出します。実際に、このような人口調査があったことは、史実としては確認されていませんが、地上を支配する強大な権力、王権と、弱い幼な子の姿をとられ、平和の主として、わたしたちのところに来られたメシアとの対比が浮かび上がってきます。

 ナザレの大工ヨセフは、ダビデの血筋であったので、マリアを伴って、ダビデの町ベツレヘムに来ました。彼らが町に滞在しているとき、マリアが産気づきます。しかし、あいにく彼らの泊まる場所がありません。彼らが宿にしたのは馬小屋と呼ばれる家畜小屋でした。彼らは、生まれた幼な子イエスを「布にくるんで飼い葉桶に寝かせ」ます。

 救い主が、来られたのに、その方を泊める場所がなかったということは、わたしたちの現実を、とても象徴的に表わしていると思います。現代の目まぐるしい、そしてどこにも物が溢れている中で暮らしているわたしたちは、有り余る情報、次から次に起こり消えていくイベント、そして要らない物でいっぱい囲まれた場所に生きています。わたしたちは、時間的にも、空間的にも、そして霊的にも、心に救い主をお迎えする余地がないのです。

 今から四十数年前のことです。わたしは松江の隣の、丁度宍道湖の対岸になるH市で家庭集会を持っていました。家を集会に提供してくださる方が熱心で、集会前に知り合いの方の訪問をしました。ある方は、来られるのですが、ある方は断りを言われます。先日、古い書類を整理していましたら、書きとめたメモが出てきました。「子どもの手間が掛かるので。家の掃除や仕事が溜まっている。お客さんの準備で忙しい。仕事が入っている。他の予定がある等々」です。このときから大分年月を経ているのですが、今の人たちにも、事情は同じで、救い主をお迎えする場所は、依然としてあるようには思えません。

その夜「その地方で羊飼いたちが野宿しながら、夜通し羊の群れの番をして」いました。

主をお迎えする場所がないことによって、救い主は、この世で最も貧しく粗末な馬小屋でお生まれになりました。それは、貧しい羊飼いたちを招くのにふさわしい場所でした。

 羊飼いというとき、旧約聖書の偉大な人物であるモーセもダビデも羊飼いでした。預言者アモスもテコアの牧者でした。けれども、この良いイメージとは裏腹に、イエスの時代の羊飼いは、過酷な日常の牧畜だけではなく、夜通し羊の群れの番もしなければならないため、神殿の礼拝に参加することも出来ず、また定められた掟を守ることも出来ませんでした。彼らは、疎外された地の民で、まさにアウトローとして社会の外に放置されていた人々でした。 今日、わたしたちの社会でも、百万人の雇用が増えたといわれながら、九三万人は非正規雇用で、正規の雇用者も四六万人減少したと言われます。また、富裕層が増えた半面、年収二百万円以下の人々が五十万人以上増加して、格差は拡大しつつあります。社会の底辺にある弱い立場の階層が増加しつつあり、この傾向は今後も続くと経済学者はいいます。セーフティネットを設けるなど、この問題の解決は、政治や経済の課題ですが、深刻なことは、わたしたちの魂や心までもが、貧しく渇き飢えていることです。社会の弱者であるだけでなく、神の救いの光からも途絶され、郊外で、暗い夜の闇の中で羊の番をしているのです。

 しかし、このような羊飼いたちに「主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らし」ます。

「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである」

 天使は、まず「恐れるな」と呼びかけます。罪人であるわたしたちは、神さまの栄光に照らされたとき、滅びを予感して慄くのです。かつて預言者イザヤも、神殿に満ちている神さまの栄光を見たとき「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者(イザヤ書六章五節)」と告白しました。

 罪からくる恐れと死への不安がいつも人間を取り囲み縛っています。それは幸福の頂点にいるときでも、離れることのない感覚です。

この恐れという闇の中に捉えられていた羊飼いたちに、今、神の光が照らします。恐れではなく、いのちと喜びを与えるためです。

 さらに天使は「わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる」といいます。クリスマスの基調は喜びです。この喜びは、この世が与える、すぐに消えてしまうはかないものではありません。罪の恐れと死に囲まれていた人間に、罪の赦しと永遠の命を与えてくださる「救い主がお生まれになった」のです。この方こそ、人類が待ち望んでいた「主メシア」であります。

 九世紀に作詞されたラテン語聖歌『久しく待ちにし』は「囚われていた民は救いの主により解き放たれ、世に勝つ力の主により勝利の言葉が与えられ、光の主により暗き雲を払

う喜びを得、望みの主によりみ国の扉は開かれる(讃美歌21・231番)」と歌います。

この素晴らしい救い主が、わたしたちのところに来られたのです。

大切なことは、この救い主イエスをお迎えする場所が、わたしたちにあるかどうかであります。どんな人にも、大切な物をしまっておくような、また大事な人を迎える特別な場所があるはずです。でもわたしたちは、その場所を、どうでもよいものやがらくたで満たし、塞いではいないでしょうか。

 クリスマスは、ただお祝いし、楽しむだけでは、この世の行事と何ら変わることはないでしょう。やがて来る、紅白歌合戦や除夜の鐘・正月の屠蘇気分の中に過ぎ去ってしまうのみです。クリスマスの喜びは、わたしたちの底辺まで低くなり、そこから神さまの栄光を見させ、新しい生涯に変えてくださる救い主イエスを、心にお迎えすることにあるのです。

 「いと高いところには栄光、神にあれ、

地には平和、御心に適う人にあれ」

 

(南房教会機関誌 『うみほたる』50号から転載)

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