1月のメッセージ

南房教会 原田 史郎

 2015年1月7日

「わたしは、あなたの若いときの真心、花嫁のときの愛、種蒔かれぬ地、荒れ野での従順を思い起こす」                 エレミヤ書2章2節

 

 クリスマス(12月25日)が終わると、すぐに歳末、そして元旦を迎えました。暦は、世界中等しく同じでしょうから、何もこの国に限ったことではないと思いますが、なんとも慌ただしい中に年が変ったような気がします。テレビのニュースで、25日のデパートの閉店時間が迫ると、一斉にクリスマスの飾りや商品を外して、それっとばかりにお正月用のデスプレイに模様替えする光景が映し出されていました。一年で一番忙しい日だそうで、その変わり身の早さは驚くばかりです。

 それでも新年のよいところは、新しい気分で「この年を始めよう」と、過去何年もうまく行かなかったのも関らず、また新たに思うことです。でもこのリセットによって、2015年が、確りした土台作りになり、そこにやがて堅固な建物が建つために、わたしたちは聖書のメッセージを聴きたいのです。

 神はエレミヤを通して、イスラエルの民に語りかけられました。

「わたしは、あなたの若いときの真心、花嫁のときの愛、種蒔かれぬ地、荒れ野での従順を思い起こす」 

ここで神が「若いとき」と言われるのは、彼らがまだ豊穣なカナンの地に入る以前、奴隷の地エジプトから脱出して、シナイの荒れ野を彷徨していた苦難の時代のことです。イスラエルは、荒野で、神に呟いたり不信仰なふるまいをしましたが、今、神はそれを問われません。その破れの中にも、神への真心を持ち、神を慕って、その導きにひたすら従っていたときのことを思い起こされるのです。

 『信徒の友』1月号で、加藤常昭師が「悔い改めをもって、今こそ新しいあゆみを」という巻頭言を書いておられますが、そこで宗教改革の発端となったルターの95カ条の提題の第1条を紹介しています。

「われらの主にして師なるイエス・キリストが「悔い改めよ」と言われたとき、それは、われらの全生涯が悔い改めであることを求められたのである」

 戦後70年、国際関係や人口減少等これからの国の行き先も不透明です。教会も伝道が不振で、高齢化と少子化の波を乗り切れず葛藤しています。でも、原点に立ち戻って、わたしたちが悔い改めから始めるとき、そこに必ず希望と展望が開けることを信じます。

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