4月のメッセージ

南房教会 原田 史郎

2015年4月5日

 

「あの方は、ここにおられない。復活なさったのだ。」

 ルカによる福音書24章6節

 

 4月は、年度の初めで、入学式、入社式、就任式や人事異動による新しい任地への赴任など、わたしたちの社会生活での一つの出発のときでもあります。南房教会でも、ひかりの子学園からきていた高校3年生たちが、それぞれ、県外の職場に就職して旅立って行きました。ときあたかも、この国では桜が満開になり、華やかにそれらの人々の希望と期待に満ちた出発を祝福するかのように咲き誇ります。

 4月は、いくら歳を重ねても自分の若い日々を思い起こして、何か嬉しく人生の希望が残されているように感じます。そして、教会の暦は、今年は4月5日(日)がキリストの復活を記念する復活祭(イースター)に当たります。

 聖金曜日の夕刻前に、イエスの体は十字架から取り降ろされ、主の処刑に組みしなかったユダヤの議員アリマタヤの墓に、慌ただしく埋葬されました。中一日(土曜日)は、安息日で、ユダヤでは一切の労働や作業が禁じられていました。そして、「週の初めの日の明け方早く」即ち日曜日の早朝、ガリラヤから従ってきた婦人たちは、用意しておいた香料などをもって、墓に急ぎます。

 ところが、墓に着いてみると、墓の入り口を塞いでいた「石がわきに転がしてあり、中に入っても、主イエスの遺体が見当たらなかった」のです。途方に暮れている婦人たちに、「輝く衣を着た二人の人がそばに現れ」婦人たちに「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにおられない。復活なさたのだ」と告げました。

 婦人たちはこの出来事を、男の弟子たち(後に使徒と呼ばれる)に話しましたが、彼らには、婦人たちが、たわ言をいっているように思われ信じようとはしなかった、と聖書には記されています。確かに、死人が復活するなどということは、通常の考えではあり得ないことです。しかし、このあり得ないことが起こったところに、復活の深い意味と恵みがあるのです。

 いくら美しく咲いている桜も、やがて散っていきます。桜のいっときの美しさと、すぐに散っていく潔さに、わたしたちは日本的な美意識を感じます。それは、わたしたちが何気なく、心の奥で感じている人の生涯のはかなさであるかも知れません。はかなさだけならば、美意識の段階に止まりますが、さらに根源的に考えるとき、わたしたちはこの世に生きる人間を支配している罪、そしてその報酬としての死という終局のあることに気付くのです。

 キリストの復活は、「十字架と復活」というように二つのものが結びついる出来ごとです。十字架の上で、わたしたちの罪を負い、死んでくださったキリストは、それによって罪を赦し、神に生きる命を、わたしたちに与えてくださいました。そして復活は、その証明であり、新しい永遠の命への新しい出発でもあるのです。4月の新しい出発が

復活祭(イースター)に現わされた魂の新しい出発にもなりますように心から祈ります。

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