5月のメッセージ

2015年5月3日

 南房教会 原田 史郎

 

「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」 ヨハネによる福音書6章35節

 

 パンは、わたしたちが日々生きて行くときに、欠かせないものです。主が教えられた「主の祈り」の中にも、「わたしたちの日毎の糧をお与えください」と祈ることを許されました。主イエスは、ここでご自分を「わたしが命のパンである」と表明されました。

 パンは、わたしたちの命を支える主食です。パンというとき、ユダヤ人は、ある独特のイメージを思い描きました。それは「出エジプト記」16章に記述されている故事のことです。紀元前1280年から1230年ごろ、イスラエルの民は、モーセに率いられてシナイ半島の荒れ野を彷徨していました。そのとき、毎朝ごとに「マナ」と呼ばれたコエンドロの実のような白くて丸いものが、天幕の周囲を覆いました。彼らはそれを取って食べ、荒野で40年間養われ、生きることが出来たのです。でも、そのパンを食べたイスラエルの民は、結局、当然の如く死んでしまいました。

 しかし、主イエスは「わたしは天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる(51節)」と言われます。かつて主は、サマリヤで、井戸の水を汲みに来た女性にも言われました。「わたしが与える水を飲む者は、決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る(4章14節)」

 主がここで言われているのは、物質的な水やパンではなく、神の賜物としての霊的な命のことなのです。それは、わたしたちに生き生きとした生涯と希望を与えるものです。

マザーテレサは「今、人々に物質的なパンを与えることよりも、愛に飢えている人々の心を満たすパンを与えることの方が、はるかに難しいことです」と言ったことがあります。今日、多くの人々が、心の飢えと渇きに呻いているのです。

 このパンを得るために、わたしたちは「わたしのもとに来る者は(35、37節)」と言われたように主のもとに行かなければなりません。この「来る」を、山浦玄嗣氏は、イエスが東北の漁師言葉で「俺を頼って来る者は、もうその腹を空かせない。この俺に、身も心も任せる者は、あとは咽も渇かない」と訳しました。この「頼って来る」という表現は、なかなか意味が深いものだと思います。博打で稼ぎをすってしまい、身ぐるみ剥がされて、すってんてんになった者、おかみさんに愛想を尽かされ、家を追い出されたぐうたら亭主。いずれも、自分の身から出た錆ですが、にっちもさっちもいかなくなって、網元の所に助けを求めてきたという具合でしょうか。もう、自分で自分をどうすることも出来ない、そういう手合いが、思い浮かびます。そんなわたしたちでもよい、オーケーだよ、と主は言われるのです。

 地上のパンや水は、どんなに多く備えてもやがて無くなり、それを摂った者もやがて消え失せて行きます。しかし、「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがない」と言われたイエスに頼り来たり、この救い主に信頼して歩む人には、「決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」永遠の神の命が約束されるのです。 

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