11月のメッセージ「計ることが立つために」

2015年11月1日

南房教会 牧師 原田 史郎

 

「あなたの業を主にゆだねれば、計らうことは固く立つ」(新共同訳)

箴言16章3節 

               

 上記の聖句は、新共同訳聖書のものですが、前の口語訳聖書は「あなたのなすべきことを主に委ねよ。そうすればあなたの計るところは必ず成る」と訳しています。すなわち、「あなたの業」とは、神がわたしたちに「与えられたつとめ」であり「使命」であるということです。

 わたしたちは、自分の成すべきことについて、いろいろ考えて、企画し、準備します。その計画は、ことによっては自分ひとりではなく、家族や友人、志を共にする仲間の助けや協働によって、計画の実現に進みます。そのとき、わたしたちは、その推進すべき主体は、疑うことなく「わたしたち自身」だと思っています。

 しかし聖書は、その業を成すのは「主」であると、いうのです。けれども、それは神がわたしたちに変わって、全てを執り行うということではありません。また、神の思惑の侭に、わたしたちがロボットのように意志や感情を持たないで、機械的に操作されることでもありません。

 若いときには、可能性と未来に囲まれ、何でも出来るように思っていました。たしかに、その人が理想やヴィジョンをもって、前に進まなければ道は開かれません。でも、本当にわたしたちは、自分の運命をコントロールして、世界を動かすことが出来るのでしょうか。

 恥ずかしいことですが、最近、クッキーや菓子類、弁当についているドレッシングや割りばしのビニール包装がなかなか開けないのです。ついこの前まで、難渋しているお年寄りのビニール包装をいとも簡単に開いて感謝されていたのに、と思います。あの若いときの指に宿っていた力、あの手首を含めて何十種類もある筋肉や神経に宿っていた力は、自分のものであって、自分のものではない、ということです。人間は、自分の心臓を自分で止めたり、動かしたりすることは出来ません。そこには、わたしたちを超えた大きな意思と存在があり、その慈しみの中で、精一杯生きることが支えられているのだと思います。

 「あなたの業を主にゆだねれば、計らうことは固く立つ」という箴言は、主に全てを丸投げすることではなく、主に信頼して、ことを成すための必要な力と助けが、ことを始める志を与えてくださった方から与えられ、それ故に、始められたことは必ず成ると信じることなのです。

 10月、日本キリスト教社会事業同盟の「軽費老人ホーム・ケアハウス交流会」が近江八幡市であり、その際、市内にあるヴォーリス記念館を訪れ、藪館長の話を伺いました。ヴォーリスの名前は、建築や近江兄弟社のメンソレタームで知られていますが、彼は初め、北米YMCAから派遣された宣教師で、滋賀県立八幡商業高校の英語教師として1905年(明治38年)来日しました。八幡商業高校では、授業を担当するかたわら、バイブルクラスを開講し、学内にYMCAも組織し、多くの学生に感化を与えました。だが、これを快く思わない仏教青年会などの反対や学内のトラブルなどのために、1907年、わずか2年で職を解かれてしまいます。日本に赴任するために、大学でも専攻を変え、言葉も分からない異国の日本に、1か月以上の航海を経てきたのに、わずか2年で、早くも挫折したのでした。

しかし、その失意の中から、ヴォーリスは立ち上がり、1911年「近江基督教伝道団」を組織、後の「近江ミッション」になります。 その後のヴォーリスの働きは、目覚ましく、病院、サナトリュウムなどの医療事業、それらの活動を支える収益事業である「メンソレターム」の軟膏販売、また建築設計監理を行う現在の「ヴォーリス建築事務所」を設立しました。今日、全国各地にヴォーリス建築があり、早稲田奉仕園、11月に建て替えが完成する大丸心斎橋店本館、関西学院大学などの建築は良く知られています。また神戸女学院大学は、この度、国の重要文化財に指定されました。彼の建築理念は、他の事業にも共通することですが、「神の国の実現」というヴィジョンを、建築という形態で表現するものでした。なお、彼が妻一柳満喜子と1919年に結ばれたのも、この建築を通しての縁でした。

 わたしたちの人生は、必ずしも自分の思い描いたようには行きません。いや、むしろ思いもかけない挫折や、ときには進路変更を余儀なくされることも少なくはないでしょう。しかし「あなたの業を主にゆだねれば、計らうことは固く立つ」という聖書の言葉によって歩むならば、わたしたちをこのつとめに召してくださった主は、「そうすればあなたの計るところは必ず成る」としてくださるに違いないのです。

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