12月のメッセージ「喜びを迎える場所がありますか」

2015年12月6日

南房教会牧師  原田史郎

                  

「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである」

ルカによる福音書2章1~14節 

    

 「そのころ皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録せよとの勅令が出た」とルカは書き出します。この勅令によって、ナザレの大工ヨセフは、マリアを伴って、生まれたダビデの町ベツレヘムに登録のために来ました。彼らが町に滞在しているとき、マリアが産気づきますが、彼らの泊まる場所がありません。彼らが宿にしたのは馬小屋と呼ばれる家畜小屋でした。彼らは、生まれた幼な子イエスを「布にくるんで飼い葉桶に寝かせ」ます。

 救い主が、来られたのに、その方を泊める場所がなかったということは、わたしたちの現実を、とても象徴的に表わしていると思います。現代の目まぐるしい、そしてどこにも物が溢れている中で暮らしているわたしたちは、有り余る情報、要らない物でいっぱい囲まれた場所に生きています。わたしたちは、時間的にも、空間的にも、そして霊的にも、心に救い主をお迎えする余地がないのです。

 その夜「その地方で羊飼いたちが野宿しながら、夜通し羊の群れの番をして」いました。 イエスの時代の羊飼いは、過酷な日常の牧畜によって、神殿の礼拝に参加することも出来ず、また定められた掟を守ることも出来ませんでした。彼らは、疎外された地の民で、まさにアウトローとして社会の外に放置されていた人々でした。彼らは、弱者であるだけでなく、神の救いの光からも途絶され、暗い夜の闇の中で羊の番をしているのです。

 しかし、このような羊飼いたちに「主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らし」ます。

「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである」

 クリスマスの基調は喜びです。この喜びは、この世が与える、すぐに消えてしまうはかないものではありません。罪の恐れと死に囲まれていた人間に、罪の赦しと永遠の命を与えてくださる「救い主がお生まれになった」のです。この方こそ、人類が待ち望んでいた「主メシア」であります。 大切なことは、この救い主イエスをお迎えする場所が、わたしたちにあるかどうかであります。どんな人にも、大切な物をしまっておくような、また大事な人を迎える特別な場所があるはずです。でもわたしたちは、その場所を、どうでもよいものやがらくたで満たし、塞いではいないでしょうか。クリスマスの喜びは、わたしたちの底辺まで低くなり、そこから神さまの栄光を見させ、新しい生涯に変えてくださる救い主イエスを、心にお迎えすることにあるのです。

 「いと高いところには栄光、神にあれ、

地には平和、御心に適う人にあれ」

(南房教会機関誌 『うみほたる』50号から抄約)

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