2月のメッセージ「見失った羊を見つけた」

2016年2月7日

南房教会牧師  原田史郎

                  

「その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。」                  ルカによる福音書15章4~6節     

 このところ映画館で映画を見るということは殆どないのですが、久し振りに有楽町の読売会館8階にある「角川シネマ有楽町」に行きました。『消えた声がその名を呼ぶ』(原題は「The CUT、切断」)で、監督、脚本はファタィ・アキンというトルコ人が製作したトルコ映画です。元朝日新聞記者のH氏、かにた教会協力牧師のK師と一緒で、観賞後、ベトナム料理のレストランで、感想を話し合いました。

 あらすじは「1915年、第1次世界大戦中のオスマン・トルコ、マルディン。夜更けに現れた憲兵によって、アルメニア人の鍛冶職人ナザレットの幸せな日々は終わった。妻と娘から引き離され強制連行された砂漠では、仲間を次々に失い、激しい暴行で声も奪われた。やがて奇跡的に死線を乗り越えたナザレットは、生き別れた家族にあうため、灼熱の砂漠を歩き、海を超え、森を走り抜ける。家族への想いはたった一つの希望となり、平凡だった男を遠くアメリカ、ノースダコタへと導いていく。地球半周、8年。さすらう男がたどりつく先とは」(キリスト新聞、1225日)というものです。

 この映画の特色は、背景にオスマン政府によるキリスト教徒アルメニア人に対する集団消滅を意図した大虐殺があります。100万人から150万人の人たちが犠牲になったといわれますが、トルコ政府はいまだにその事実を認めていません。映画でも、1シーンですが、連行されたアルメニア人たち並ばされて、「カリフの命令だ。イスラム教徒に今、改宗する者は前に出ろ」といわれ、「裏切るのか」と言う声の中で、数人が進み出ます。残された者たちは問答無用とばかりに、両手を後ろ手に縛られて、有無を言う暇もなく虐殺されていきます。彼らの苦難は、今日でも続いていて、アルメニア共和国には300万人が住んでいますが、国外には700万人、シリア難民の中にも大勢のアルメニア人がいるそうです。ディアスポラ(離散した民)になり、難民になっている彼らの歴史は、けっして過去のものではないのです。

 そして、監督のファタィ・アキンはトルコからドイツに移民した二世で、当然のことながらトルコでは、誹謗中傷の激しいバッシングを受けました。今、日本ではアメリカ映画『アンブロークン(不屈の男)』の上映が、話題に上っています。アンジェリーナ・ジョリーが監督したこの映画の中に、日本軍の捕虜収容所で不当な暴行を受ける捕虜虐待のシーンが反日的だとネットに流れ、日本での公開が1年以上遅れていました。この映画をまだ見ていませんが、内容は反戦的なものだそうで、アキン監督のものも、虐殺や処刑の場面もありますが、いわゆるイデオロギー色の強い告発を主としたものではなく、そのトーンを抑制しながら、それを超えてより根源的なもの、人を結びつける愛と忍耐を描いているものです。主人公ナザレット(イエスの住まわれた故郷ナザレに因んでいる)は、妻の死を知り、娘も死んだものと思い、神に祈る力と信仰を失い、手首に入れていた十字架の刺青を石でこすり落とそうとします。たどり着いたアレッポのアラブ人の石鹸工場で、チャップリンの『キッド』を見て涙にくれるシーンは、たとえ知らない孤児でも愛で結びついた関係は、決して離せないものだということを強く訴えます。劇中、かつて妻が就寝前によく歌った「愛する人よ」という歌がしばしば出てきます。悲嘆にくれているどん底の中で、かつて彼の工房を手伝っていた青年から娘が生きていることを知らされ、ここから失われた娘を尋ねて、キューバ、アメリカのミネアポリスを苦労して旅し、そして荒涼たる冬のノースダコタの寒村で、ついに足の不自由になった娘に再会を果たすのです。

 ラストシーンは、娘を確りと抱きしめた心も体もずたずたなり傷だらけのナザレットが、全てを失ったと独白しますと、娘が「でも私を見付けてくれた」と言います。「そうだ、わたしは愛するお前を見付けた」と、父が応えます。それは、愛する人を失うというあまりの苦難のなかで、神を見失い信仰をも見失った主人公が、再び愛する者を見出すことによって信仰を回復する予感を思わせるものでした。

 この映画を見て、なによりも主イエスが語られたルカによる福音書15章1~7節で語られた「『見失った羊』のたとえ」を思い出しました。愛する者を「見失ったとすれば」どんな犠牲を払ってでも「見つけ出すまで捜し回る」のではないでしょうか。 この「見つける」というギリシャ語「ユーリスコー」は、求めていたものを探し出す、尋ねあてると言う意味です。イエスのたとえ話には、見失った羊を必死に探し回る羊飼いに、わたしたちを捜しておられる神さまの愛と思いが重ね合わされています。

聖書が訴えているように、社会とわたしたち人間の失ってならないもの、結びつけるけるものは何か、その大切さを、この映画は現代の言葉で語られているように思いました。

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