4月のメッセージ「目標を目指して」

2016年4月10日

             南房教会牧師  原田史郎

                  

「神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです」

フィリピの信徒への手紙3章14節 

 

4月は、新しい年度が始まり、元旦とは違った、思いを新たにする時でありましょう。特に進学や就職、転任や転職、或いは結婚、離婚、定年などの節目を迎えた悲喜こもごもな人の歩みが始まります。多くの場合、わたしたちは、その時々の対応に追われて、長い先の目標や展望を考える時を持てないのですが、4月という月は、この1年どう生きるべか、

を考えるのは大切なときだと思います。

 若いとき御世話になったヴァンスクーテン宣教師がこんなことを話されたのを覚えています。「わたしは、ネブラスカの農家で育ちましたが、毎年、広い農地を大型耕作車で開墾します。ところが、ネブラスカの平野は、畑の周りには山はおろか木の一本も見えません。見渡す限りの平野で、種も肥料も飛行機で蒔きます。そんな所で、耕作車を走らせると、とんでもない方向に外れてしまうのです。そこで、高いポールを何本か立てて、そのポールを目標に耕していくと、きちんと整備された畑になるのです」

 後にわたしは、ナシュビル(テネシー州)からソートレイク(ユタ州)まで、小さな国内線の遊覧飛行のような飛行機で、ネブラスカの上空を飛んだことがありますが、その時、この話を思い出して納得したことでした。

 使徒パウロは「賞を得るために目標を目指してひたすら走る」とフィリピ教会の信徒に書き送りました。このときのパウロは、獄中にあり、その殉教の日が近いことを意識していました。しかし、使徒の内には、「神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために」最後まで走り抜くことだけが、変わらない祈りと思いとして生きていたのです。

 最近、こんなコラムを見ました。「キケロは、老人はすることがない。体力がない。何の楽しみもない。死に面している」だから、惨めだというのです。だからでしょうか。

「人生の各々の時期には、それにふさわしいものが備わっている。少年期の虚弱さ、青年期の元気よさ、壮年期の重々しさ、老年期のまろやかさには、なにか自然なものがある。それぞれの時代に享受すべきなのだ」とも言っています。(1月23日毎日新聞)

 これを見て、若い日を思い起こせば、「①青年はすることがいっぱいある。だけれども、何をするのかよく分からない。②体力、エネルギーに溢れているけれども、それを何に向かって燃焼すべきか。③楽しみが沢山あって、その誘惑に本当に成すべきことは何なのか。④死は遠いように思っていて(生物的生命)実感が湧かないが、しかし、絶対の確率で、全ての人に最後は訪れる。」ともいえるのではないでしょうか。

 老年になっても、いや、若くして人生が中断される事態になっても、パウロのようになお「目標を目指してひたすら走る」ことが出来るようになりたいものです。そのために、神がわたしに授けようとされる目標は何なのか、神の言葉である聖書に聞くことの大切さを思います。

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