6月のメッセージ「幻を持って信仰に生きる」    

2016年6月8日

南房教会  原田 史郎

「主はわたしに答えて、言われた。『幻を書き記せ。走りながらでも読めるように/板の上にはっきりと記せ』」            (ハバクク書2章2節)

 

 預言者ハバククは神に訴えます。「主よ、わたしが助けを求めて叫んでいるのに/いつまで、あなたは聞いてくださらないのか(1章2節)」 ハバククは、紀元前7世紀末、預言者エレミヤと同時代の人です。当時、南ユダ王国は、バビロニアによる侵略だけでなく、国内でも「律法は無力となり/正義はいつまでも示されない。神に逆らう者が正しい人を取り囲む。たとえ、正義が示されても曲げられてしまう(4節)」という状況でした。

 「正義(ツェダカー)」または「義」は、「慈しみ」と共に、神の性質を表す大切な概念です。正義が蔑(ないがしろ)にされていることは、神の支配(治めること)が疎かになっていることであります。

 この預言者の訴えに、神は「幻を書き記せ。走りながらでも読めるように/板の上にはっきりと記せ」と答えます。「幻がある」と神は言われます。不法な勢力が力を揮っていても、「たとえ、遅くなっても、待っておれ(2章3節)」と言われます。それは、現状が如何にあれ、神に信頼して「神に従う人は信仰によって生きる(4節)」ことに他なりません。

 この幻を待ちつつ、それを最初に見たのが洗礼者ヨハネでした。ヨハネが水の豊かなアイノンで洗礼を授けていると、弟子たちが来て「あなたが証しされたあの人(ナザレのイエス)が、洗礼を授けています。みんなあの人の方に行っています(ヨハネによる福音書3章26節)」と言いました。そこでヨハネは、自分はメシアではないと、はっきりと否定して、自分は花嫁を迎える花婿の介添え人だと、言い表します。それは、イエスを見たとき「見よ、神の子羊(1章36節)」と言ったことの確証でありました。

 わたしたちにとって、正義の実現は、このイエスをキリスト(メシア)として告白しつつ、神の与えてくださる幻を抱きながら「信仰によって生きる」ということでありましょう。このような生き方を、主に従って一人一人が積み重ねて行くなかで、不法の世にも神の正義が現されるのです。

 最近、7月参院選と関係して憲法改正の是非が、いよいよ現実味を増してきました。そのことで思い起こすのは、かつて平成(明仁)天皇が1990年に即位したとき、即位礼正殿で「常に国民の幸福を願いつつ日本国憲法を遵守(じゅんしゅ)し」と宣明したことです。この「日本国憲法を遵守し」と言われた憲法は、帝国憲法に替わり、戦争の放棄を定めた「憲法第9条」を含む現行の平和憲法です。この憲法第9条の成立については、さまざまな人物が関係していますが、成案に影響を与えたひとりにヒュー・ボートンという、戦後日本の政策立案者がいました。彼は憲法の基本原則の中でも、特に平和主義の思想を強く訴えました。ボートンは良心的兵役拒否で知られるクエーカー教徒でした。よく考えてみれば、憲法9条は聖書の平和思想を基盤とするキリスト教の平和信条そのもといっても良いものです。

 また、現在の天皇が皇太子であったとき、エリザベス・ヴァイニングという英語の家庭教師が付きました。彼女も平和主義のクエーカー教徒です。13歳から中高生時代という人生で最も感受性と思索が深まる年齢で、皇太子は彼女から英語を通して世界観や平和思想の影響を受けたことが充分考えられます。 憲法第9条を特色とする平和憲法のもとで、天皇は「常に国民の幸福を願いつつ日本国憲法を遵守(じゅんしゅ)し」日本の「国民統合の象徴としてつとめを果たす」ことを誓ったのです。

 一人一人が、幻を持って信仰によって生きるとき、神の正義もまた、わたしたちの思いを越えて現されてくるのだと思います。神が与えてくださる幻を覚えながら、キリストを確りと見つつ、神の正義の実現に力を尽くしたいと思います。

(6月5日の礼拝説教から)

もどる