7月のメッセージ「喜び歌って御前に進み出よ」

2016年7月10日

南房教会牧師  原田 史郎

 

「喜び祝い、主に仕え/喜び歌って御前に進み出よ」(詩編100編2節)

 

 昨年から、わたしたちの教会で、その月の「誕生者の愛唱讃美歌を歌う会」というのを始めました。祈りの会や交わりの集いなどで、讃美歌を歌うときに「これがわたしの愛唱歌」とか「お葬式のときに歌ってね」とか、愛唱讃美歌の番号を交換し合う姿は、どこの教会にも見られる風景ではないかと思います。わたしの「讃美歌」の頁の余白にも、そういう方々の名前が書き込んであります。そういうことならこの際、みんなで共有してはどうですかということで、第二週の礼拝後、その人の讃美歌との出会いなど、短いエピソードを添えて話して貰います。一年たって、一廻りしたのですが、好評のため、また愛唱讃美歌は一曲に限らないので、継続することになりました。

 「歌は世につれ、世は歌につれ」ともいいますが、歌との出会いは、どんなに歳月を経ても忘れられないものです。最近、合津若松市の34歳の主婦の方の投書が新聞に掲載されました。「音楽の時間に、『赤い屋根の家』を歌ったんだよ」と、小学1年生の息子が、寝る前の今日のできごとを教えてくれた。「もしかして、こういう歌?」と口すさんだ。すぐにメロディが浮かび、歌いたくなった。」すると歌の情景と自分の思い出とがリンクして、懐かしくなった、と書いておられます。この方は「子どもの何気ない一言にいろいろな感情や感覚が呼び覚まされた(毎日新聞6月25日)」のでした。

 この投稿を読みながら、気が付いたことは、南房教会の「こども聖書会」で誕生日を祝うときがあります。幼小科では、そのとき7歳とか10歳と聞いて、祝福のお祈りをするのですが、フト、自分が7歳とか10歳のときはどんなだったろうかと、思い返します。また、7年前は何をしていただろうか、10年前は、などと過ぎた日々を一瞬回想させられます。

 また中高科のこどもたちの誕生日を祝うとき、わたしの記憶は、幼小時代よりはるかに鮮明な記憶が残っています。そのときに愛読した書物や出会った先生や友人、印象的な体験など、今なを自分の内に生きて力を与えてくれる源泉でもあります。だが、残念なことは、今の中高生の多くは、書物よりもスマホを手に持って、ラインで交信する時代です。生きる意味を書物やひとりになって自分で思索するより、ファッションやアイドルの方に、より関心が向くようです。もはや、おじさんの時代ではないとも思いますが、それでも彼らの触れている世界へのみずみずしい感覚や視点には、いつも新鮮なものを感じます。

 愛唱讃美歌を歌うとき、教会の方々は聖書を読み出し、教会通い始めたときの、あのみずみずしい若き日の求道心に燃えた日々がよみがえるようです。そしてまた、幼い子どもたちと触れ合うとき、幼少期、青年期の情景と感覚が昨日のように浮かんできます。そのとき、わたしたちは古き過ぎ去りしときを回想するだけでなく、そのとき、もう一度、明日への希望を新しい思いをもって踏み出そうとしているのだと思います。

 神さまを礼拝することは、神さまを讃美することでもありましょう。神さまを讃美することを通して、神さまを知り、覚えたいものだと思います。

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