8月のメッセージ「8月の記憶」

2016年8月7日

南房教会牧師  原田 史郎

 

「実に、キリストはわたしたちの平和であります」

(エフェソの信徒への手紙2章14節)

 例年、わたしたちの教会では、8月に入ると平和聖日(第1週の日曜日)を中心に戦争体験を語り継ぐ会を持っています。第1週の日曜日は、毎月、洗礼を受けた人を対象とした聖餐式という、パンとぶどう酒(液)による礼典がありますから、一般の人たちのことを考えて、ここ数年は、第2週の日曜日に開催しています。今年は、戦後世代の人たちから、戦後の生活と戦争と平和について発言をしてもらおうと、社会担当の役員たちが考えました。それで、発言をお願しようと思ってIさん(65歳)に、戦後の生活はどうでしたか、とお尋ねしたところ、昭和26年(1951年)生まれで、もの心ついた7歳からの学齢期は昭和34年(1959年)になるとのことでした。このころから、日本は高度経済成長の時代に入り、翌1960年は日米安全保障条約、1965年に日韓基本条約を締結しています。また、すでに1951年にサンフランシスコ平和条約で、日本は西側陣営への復帰を許され、1956年には、日ソ国交回復(日ソ共同宣言)がなされていますから、戦争の記憶や危機がないわけではありませんが、それ故にこそ、日本は経済を中心とした復興と経済成長へとシフトしていった時代でした。

 考えてみれば昭和20年(1945年)の敗戦を知っている世代は、20年生まれは今年71歳、このときもの心ついた7歳児以降は77歳以上の人たちになる訳です。このことは、大東亜戦争から71年経過した今、平成生まれ(1989年)の人でも29歳なっており、まして昭和の初期になる、あの戦争はかなり風化し、遠いものとなりつつあるのも無理はありません。わたしが中学、高校のころ、祖父たちはまだ日清戦争(1894年)、日露戦争(1904年)の話をしていましたが、子供心にそれは遙かに遠い明治の昔物語のように思えました。しかし、よく考えてみると、今日70代後半の人々にとって、この二つの戦争は、彼らの生まれるわずか30から40年前の出来ごとだったのです。

 敗戦時、わたしは縁故疎開で、山形県東田沢村の農家に疎開していました。今日は重大発表があるから登校せよとの知らせがあって、暑い日差しの強い中、麦わら帽子をかぶって、小学校に行きました。校庭の、いつも校長先生が長い訓示を垂れる台の上にラジオが置いてあって、放送を流しています。何があるのかよく分からないままに、やがてチャイムのようなものが鳴り、これから重大発表があるとのアナウンスがありました。すると、よく判読(聴)出来ない、独特の抑揚のある謡のような昭和天皇の言葉が流れてきました。部分々々の「忍びがたきを忍び」など、ところどころ単語の分かるところもありますが、結局「どうやら日本が負けたらしい」という先生の言葉で解散になりました。こども心に特に感慨もなく、そういうものかと、これから日本はどうなるのだろうかと、漠然と思う程度でした。むしろ敗戦を実感させられたのは、焼け野原の横浜に帰り、食糧難、物資不足、栄養不足のため疥癬やしらくもに悩まされ、また、同居していた大叔母の夫が遺骨で帰って来たこと等です。この夫は、日本郵船の船長でしたが、南方に兵隊や物資を積んで航行中、アメリカの潜水艦に沈められて亡くなりました。玄関先で泣きながら大叔母が白布をほどくと、日東紅茶の四角い缶が出てきて、その中に白い骨が一片だけ入っていました。今思えば、遺骨など回収する術もないのに、それだけが日本政府の思いやりだったのでしょうか。

 戦争や紛争のニュースが、連日報道されています。先日、『選択』(8月号)を見ていましたら、米戦略国際問題研究センターのアジア上級顧問、ボニー・グレーザー氏ら専門家は「『米中戦争はない』との見方で一致するが、南シナ海からインド洋一帯の国々では『第3次世界大戦は南シナ海からはじまるか?』(タイムズ・オブ・インディア紙)など、偶発的衝突が招く事態悪化への懸念が広まっている」とありました。あり得ないことが起こりうるのがこの世界です。

「実に、キリストはわたしたちの平和であります」 キリストが生み出してくださった平和が実現するように、戦争を回避するための対話や協調を支援し、平和への祈りと働きを絶やしてはならないと改めて思います。

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