10月のメッセージ 「暗闇から光へ」

2016年10月9日

南房教会牧師  原田 史郎

「あなたは死からわたしの魂を救い/突き落とされようとしたわたしの足を救い、命の光の中に/神の御前を歩かせてくださいます」   (詩編56編14節)

 

今年の9月26日(月)から8日(水)、日本キリスト教団社会委員会のメンバーとして、沖縄に行ってきました。今回は、基地、戦跡訪問と共に、沖縄戦の犠牲者の方からの証言を伺う研修旅行です。

1日目は、まずひめゆりの塔、摩文仁の健児の塔や各県の建てた慰霊塔などを見て回りました。沖縄には、すでに6から7回位、訪れていますが、何回来ても、沖縄戦の悲惨さに胸を突かれます。平和祈念資料館の「歴史を体験するゾーン」展示コーナーのむすびに一枚の額が掛けられています。そこには「沖縄戦の実相にふれるたびに/戦争というものは/これほど残忍で、これほど恥辱にまみれたものはないと思うのです」とあます。そして中段には「戦争をおこすのは、たしかに人間です/しかし それ以上に/戦争を許さない努力のできるのも/私たち人間ではないでしょうか」とありますが、この言葉こそ、いつもわたしたちが確認し続けなければならないことだと思います。その後、台風の余波で、波風の強い本島最南端の喜屋武(きゃん)岬を訪れましたが、眼下に広がる白い波頭や砂浜は、かつて鮮血と無数の死体で海岸を埋め尽くしていたと、案内の芳澤牧師が語っていました。

2日目は、那覇泊港から渡嘉敷島に渡り、集団自決慰霊碑や特攻艇防空壕等を巡りながら、元沖縄短期大学の金城重明牧師の証言をお聞きする予定でした。ところが台風の影響で、フェリーが欠航したため、真和志教会で同師の証言を聞くことになりました。

集団自決は、慶良間諸島の渡嘉敷島で、329名の島民が肉親同士を殺し合うという、人類史上極めてまれで残酷で異常な事件です。1945年3月28日、住民は数日前に軍から手榴弾を渡されていましたが、発火した数が少なく、残された者は刃物や石で愛する妻子や親を刺し、また撲殺したのです。この殺戮の主役は一家の長である父親であり、また夫でした。その様子を同師は「私の目に最初にうつったのがひとりの中年の男子で、彼は生えている小木をへし折り、それで自分の愛する妻子をなぐり殺しはじめた。これが、あの残酷物語の第一幕なのである。その時愛情は殺りくへと変質し、最も愛する者の生命を絶つことが、唯一の残された道であり、しかも名誉ある事柄であった。ある者は棍棒や石で頭部を打ちたたき、ある者は鎌やカミソリで頸動脈を切り、ある者はひもで首を締めるなど、阿鼻叫喚を展開した。まさに人間否定の極限状況が、集団自決のよってくりひろげられたのである。」(『27度線の南から』194頁 沖縄教区編)と述べられました。

 何故このようなことが起こったのでしょうか。同師は、日本軍と住民との一体感が頂点に達していたからだと言われます。村長が「天皇陛下万歳」と三唱したとき、それは兵士が戦場で死を覚悟して敵陣に突っ込んでいくときであり、その三唱を聞いた時、住民もまた、死を覚悟したのでした。皇国史観に基づく軍国主義教育によって、子どもから大人まで、天皇のために命を捧げる教育が徹底していて、戦闘が激化すればするほど、天皇の軍 隊(皇軍)との一体性が高まっていったのです。

この後、16歳の金城少年が、凄惨な現場を離れて外に出たとき、生きている日本軍の兵士たちを見ます。そのとき、いいようのない不信感と失望がこみ上がってきたそうです。

 しかし神さまは、この癒し難い心の疵を負った金城少年を、島の聖書を読む家庭集会に導かれます。そこで起こった転機を、金城師は「家族の不自然な死、いや異常な死に対する怒りと絶望と疑いが内面で錯綜した。そしてほんとうに私には生きる望みが絶えた。まさに生と死の狭間を彷徨している時、私は主イエス・キリストとの出会いを経験した。それは私の生涯の中で、最も大きなできごとだったのである。」(同書196頁)と証しされました。教会のある糸満に行き洗礼を受け、その後、青山学院に進み、戦争の反省から沖縄キリスト教短大での教育にたずさわるようになられたとのことです。

 わたしたちの想像を絶する体験を持たれた金城師の証言を伺ったとき、わたしは「あなたは死からわたしの魂を救い/突き落とされようとしたわたしの足を救い、命の光の中に/神の御前を歩かせてくださいます」という詩編の言葉を思い浮かべました。どんな絶望の中にある人でも、救いたもうキリスト愛は、今もわたしたちに注がれているのです。 

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