2月のメッセージ「神により頼む者は」   

2017年2月5日

南房教会牧師  原田 史郎

 

「いと高き神のもとに身を寄せて隠れ、全能の神の陰に宿る人よ」

(詩編91篇1節)

 

 わたしたちの教会の礼拝に出席している関係者の父上Bさんの証しを、機会があって読みました。Bさんは最近天に召されましたが、そこには、この前の戦争に招集され、中国の岳州で体験されたことが幾つか記されています。                                       

 ある部落でBさんは、もう一人の人と歩哨に立たされました。話をすると彼は中央大学で、Bさんは日本大学でしたので、二人ともお茶ノ水に通い、ニコライ堂の鐘の音を聞いていて、懐かしく話をしました。ところが夜になると、彼は体の不調を訴え、衛生兵に診てもらうと、コレラであることが分かりました。すると衛生兵ではないBさんに彼の看護が命じられました。コレラは、激しい大量の下痢を伴い、それは米のとぎ汁のように流出します。おまるがないので、洗面器を代用して、病人のお尻にあてると白い液体が大量に出て、Dさんの両手に飛び散ります。幸いなことに、付近の松林にあった赤十字の梱包を開いて取りだした消毒液で手を洗いました。その都度、手を洗いました。下痢を繰り返すうちに、病人の手は、子どもの手のように細く、骨と皮だけになってしまいました。目も窪んできましたので「おい、御前、何か言い残すことはないか」と、問い掛けますと「ない、ない」と二度ほど言っただけでした。明け方、病人は息を引き取り、その日のうちに火葬され、Dさん一人が残されました。

 また以前、Dさんは、米軍の飛行機の機銃掃射を受けたことがありました。銃弾が火の玉になって30センチ離れた石にあたり、その砕石が体に当たりました。この時も、Dさんは九死に一生を得たのです。

Dさんは、これらのことを考えたそのとき、あることを思い出しました。それは昭和18年(1943年)9月20日、招集の前に巣鴨にある教会に挨拶に行きます。田口牧師や役員の人たちが送別会を開いて、讃美歌を歌い、詩編91編を読んで祈ってくれました。

そのとき読んだ聖書には「至上者(いとたかきもの)のもとなる隠れたる所に住まふその人は、全能者の陰にやどらん。・・そは神なんじを狩人(かりうど)のわなと、毒をながす疫病(えやみ)より援(たす)け出し給うべければなり・・幽暗(くらき)にあゆむ疫病あり、日午(ひる)にはそこなう激しき疾(やまい)あり、されどなんじ畏(おそ)るることあらじ」

(『文語訳聖書』日本聖書協会)と書いてあります。 その後、上等兵とDさんを除いて、分隊全員がコレラにかかり、野戦病院に入院したそうです。

 わたしは、このあかしを読んで、神の守りの大きさを思いました。神のみ手は、わたしたちひとりひとりの個別の状況や細部に働きます。それと同時に、この戦争の背景に考えを及ぼすと、戦争をひき起こす人間の罪の救いがたき悲惨さです。それは真に神に心を向けないで、ただ人間の欲望の赴く侭に歩む本性が、国家や民族という集団や共同体にも本質的に巣食っているということです。詩編91篇の終わりの数節は、キリストを予感させる言葉で終わっています。苦難をくぐって名誉を与えられたキリストに、平和への希望を祈りたいものです。

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