3月のメッセージ「試練を忍び誘惑に克つ」

2017年3月5日

南房教会牧師  原田 史郎

 

「試練を耐え忍ぶ人は幸いです。その人は、神から適格者と認められ、神を愛する人々に約束された命の冠をいただくからです」(ヤコブの手紙1章12節)

 

 キリスト教会には、わたしたちが普段使っている太陽暦と共に「教会暦」という教会の暦があります。プロテスタント教会では、カトリック教会の緻密に天使や聖人の日を定めた暦を大幅に簡素化し、聖書に起源するものだけを幾つか守っています。今年は、3月1日(水)が「灰の水曜日」とよばれ、この日から「受難節」とよばれるキリストの十字架と復活の歩みを覚えるシーズンになります。

 3月5日(日)の南房教会の主日礼拝は「試練を忍び誘惑に克つ」という主題のもとでヤコブの手紙1章12から18節を読みました。これは、受難節を歩む者にとって、その人生に起こる二つのことを覚えるためです。

 ひとつは、聖書を読み、キリストの光の中に歩もうとするとき、試練があることです。

ヤコブは、手紙の冒頭で「試練に出会うときは、この上ない喜びとおもいなさい(12節)」と書き出しています。それは試練が「忍耐」を生むからです。

 使徒パウロは、しばしば苦難を経験しました。その経験を通して彼は「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを(ローマの信徒への手紙4章3~5節)」知っていると言いました。神の愛がわたしたちに豊かに注がれているからです。

 ヤコブは、試練を耐え忍んだ人は、神から「適格者と認められ、神を愛する人々に約束された命の冠をいただく」ことが出来ると言います。 試練は、わたしたちを成長さる神さまの訓練なのです。訓練は、決して嬉しいものではありません。それは平穏に慣れたわたしたちから安逸を奪い、ときには痛みと傷を負わせるからです。しかし、この試練によって、わたしたちは新しい信仰を与えられ、祈りの膝を強くし、御言葉の恵みを体験し血肉化して、より深い霊的な生涯に入ることが出来るのです。アブラハムは、愛するたった一人の息子イサクを神に捧げるという試練を通して、「彼は神の友と呼ばれた(ヤコブの手紙2章23節)」のでした。

 もうひとつは、キリストが荒野で誘惑を受けられたように、キリストに従おうとする者に、悪魔が欲望を唆して誘惑をかけて来ることです。でもヤコブは「『神に誘惑されている』と言ってはなりません」 誘惑は、神からではなく「人はそれぞれ自分自身の欲望に引かれ、唆されて欲望に陥るのです」と言います。誘惑は、試練と違って甘く快適なものです。イスラエルは「モーセの警告(申命記30章17~18節)」にも拘わらず、繁栄と快適をもたらす豊穣の偶像に魅了されて、滅びの道をたどりました。カナンの地に入った民は、世界を創造し、雨も風も太陽でさえ支配される全能の創造主を忘れ、直接的に地の産物という利益をもたらす神々の誘惑に負けたのでした。それの神々は、彼らの心の内に湧いてきた欲望の投映でしかないのです。

 試練を耐え忍び、誘惑に克つために、ヤコブは「父なる神は真理の言葉によってわたしたちを生んでくださいました」と言います。そしてわたしたちを創造された「初穂」としてくださいました。

初穂は当時、教会の来た新しい人や兄弟姉妹を指した言葉だといわれます。わたしたちが

キリスト教や教会に触れたことの背後に、神の深い摂理があることを思います。受難節のこのとき、試練に遭われ、誘惑に克たれた主イエスの後に、初穂を恵みとして歩みたいと思います。

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