4月のメッセージ「堂々としているもの」

2017年4月2日

南房教会牧師  原田 史郎

 

「足取りの堂々としているものが三つ、堂々と歩くものが四つある。獣の中の雄、決して退かないライオン、腰に帯びした男、そして雄山羊、だれにも手向かいさせない王」  

(箴言30章29~31節)

 

 3月、スポーツの世界は、ワールド・ベースボール・クラシックをはじめ、春の選抜高校野球、サッカーやスケートなど多くの競技がもたれました。いずれも素晴らしいものでしたが、その中で特に大阪で開かれた大相撲春場所は、人々に湧きかえるような感動を与えたのではないかと思います。横綱稀勢の里が、千秋楽で照の富士と1差あった勝負を、本割で土俵際に退きながらも右からの突き落としで逆転しました。これだけで館内の観客は大歓声で、テレビで見ていたわたしも、負けても仕方がないと半分諦めながら覚めた目で見ていましたから、意外な結果に驚き、思わず腰を浮かせしまいました。

 なぜ人々が驚いたのかといえば、13日目の横綱日馬富士戦で、一気の寄り倒しに敗れ、土俵下に転落し左肩付近を強打し、その痛みに顔をしかめて、しばらく立ち上がれませんでした。その日すぐに救急車で病院に運ばれました。翌日、出場するとのことで、本当に大丈部なのかとファンが心配したことですが、彼は気力で土俵に立ちました。14日目、横綱鶴竜戦では、案の丈、張り差しで出ますが鶴竜にもろ差しになられて力を出せず、成すところなく土俵を割ってしまいました。このとき、誰もがおよそ横綱相撲とはいえない稀勢の里は、優勝争いから脱落し、悪くすれば休場、賜杯は勢いの出てきた照の富士あたりに行くのではないかと思ったことでしょう。ところが、本割で照の富士と星を対にして、いよいよ優勝決定戦です。それでも手負いの獅子になった稀勢の里、20分後に続けて二度目の対戦は、いくら何でも二連勝はとても無理だろうと、これまた殆どの人が思ったのではないでしょうか。負けても仕方がないと思いながら、それでも頑張れ頑張れと一縷の望みをもって応援します。このとき館内は稀勢の里への応援コール一色ですから、対戦する照の富士が可哀そうな位です。モンゴル出身の照の富士を応援する者はいないのかと思っても、何を今はそんなことを、という館内の熱狂です。

 決定戦は、左肩の使えない稀勢の里が、また14日のようにもろ差しを許して土俵際に詰めよられますが、右腕一本で右小手投げで逆転、優勝を掴み取りました。この時のエデオンアリーナ大阪に満員の観衆は、躍り上がって喜び、拍手はしばらく鳴りやみませんでした。 後で逆転優勝の秘訣をきかれた稀勢の里は「応援や支えてくれた人のおかげです」とも「なにか特別な力が働いた」とも言っていました。最期まで諦めない横綱としての責任感、逆境にあっても対戦を放棄しない、「努力で天才に勝ちます」と中学校の卒業論文に書いた思いを貫き、稽古に励んだ日々がそれを裏打ちしたのでしょう。

 箴言に「足取りの堂々としているものが三つ、堂々と歩くものが四つある。獣の中の雄、決して退かないライオン、腰に帯びした男、そして雄山羊、だれにも手向かいさせない王」とありますが「足取りの堂々としているもの」として「腰に帯びした男」「だれにも手向かいさせない王」をあげています。この日の稀勢の里は、横綱を締めた腰に帯びした男、そしてだれにも手向かいさせない王のようなものでした。

なお、「腰に帯びした男」は新共同訳の新しい訳語で、前の口語訳は、RSV英語標準訳と同じように「尾を立てて歩くおんどり」と訳しています。新共同訳は「ザルジール・モトナイム」という単語が腰のあたりを指す言葉であることから、このように訳したのでしょう。

「腰」といえば、使徒パウロは「立って真理を帯びとして腰に締め、正義を胸当てとして着け、平和の福音を告げる準備を履物としなさい。なおその上に、信仰を盾として取りなさい(エフェソの信徒への手紙6章14~16節)」と勧めました。

 「腰に帯びした男」稀勢の里のように、わたしたちも「立って真理を帯びとして腰に締め」、キリストに愛され、選ばれたものとして、与えられたそれぞれの道を、堂々と歩きたいものだと思います。稀勢の里伝説が生まれたその日に、思い起こした聖書の御言葉でした。

もどる