10月のメッセージ「あなたの宝は見つかりましたか」   

2017年10月1日

南房教会牧師  原田 史郎

 

「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う」   

(マタイによる福音書13章44節)

 

 主イエスは天の国について、いろいろなたとえで話されていますが、マタイによる福音書13章44~50節では、宝を見付けた人の例を挙げてその喜びを語られます。   最初のたとえは、畑を借りた農夫が畑に宝が隠されているのを見つけた話しです。ユダヤでは、戦乱や強盗に襲われたときに備え、宝を土に埋めて隠しました。迫害を受けて自白を強要されることも考えて、埋めた宝は家族にも教えなかったようです。その宝を埋めた人が何かの事情で伝えられなかった畑を、ある人が借りました。畑を耕していると、その農夫は埋められていた宝を鍬の先に掘り当てます。そして「喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買った」のでした。現代のわたしたちから見れば、持ち主に知らせなくても良いのかとお思いますが、主イエスは人間の本音をずばりと、ここで言い表されたのです。

さらに真珠を探している商人が「高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う」と、話されました。アラビヤなどでは、真珠は高価なものとしてもてはやされ、特に大きな黒真珠はめったに手に入りませんでした。この商人は、「出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買った」のでした。

 この二つのたとえに共通していることは、それがまったく予期していなかった思いがけない発見であり、すべてを賭けても惜しくない出会いであったということです。そして、このようなことは、わたしたちの人生にも、必ず一度は起こることです。

 先日、広島にお住まいの寺田和子さんから、英学史をライフワークとされた御主人、寺田芳徳氏(比治山大名誉教授)の『海軍兵学校英学文献資料の研究』(渓水社2013年)という学術論文と、同氏の「日本英学史の基礎研究―庄原英学校、萩藩の英学および慶鷹義塾を中心にー」の掲載された『日本アライアンス庄原基督教会120年記念誌』を頂きました。芳徳先生は、わたしがアライアンス聖書神学校に在学中、近くの五日市教会に通われ信仰をもたれました。神学校の寮生とも交流がありました。

後年、わたしが新潟の東中通教会に奉仕していたとき、五日市教会の田村幸三牧師が教会修養会に講師として招いてくださり、旧広島空港から佐伯区にある教会の送迎を寺田先生ご夫妻が担当され、空港の待ち時間のときもよい交わりのときを持たせて頂きました。残念なことに、芳徳先生は、20138月に天に召されます。その直前、病床で上記の論文集を見ることが出来たと、ご夫人が言っておられたのが慰めです。

『海軍兵学校英学文献資料の研究』は、現在、広島大学に所蔵されている旧兵学校の英語図書を英学史の視点で調査研究したもので、この論集には英学に練達の服部章蔵、澤山保羅、成瀬仁蔵のこと、そして、すべての論考の背後に著者の深いキリストへの信仰が息ずいていることに気付かされます。アカデミックでありながら、著者の信仰の証しでもあると思いました。寺田先生と「海軍兵学校旧蔵英書との出会いは、庄原英学校、広島英学校、萩藩三田尻の海軍学校などの英学を調べて行くなかに実現したものである」と冒頭に述べておられます。ここにも宝の発見があったのです。

 農夫は畑を耕す中で、商人は真珠の商いに集中しているときに、それぞれの分野で宝を発見しました。寺田先生は、専門の英学史の研究の中で、最後のライフワークとの出会いだったのだと思います。考えてみれば、わたしたちが福音に出会い、キリストの救いに与ったのも、わたしたちが、それぞれの道を歩んでいるとき、そのわたしの畑や市場の中に神さまは宝を発見させてくださったのです。このような出会いは、わたしたちにとって、たまたまの偶然であるかも知れません。

 しかし、視点を変えれば、わたしたちに偶然に見えるこの出会いと発見は、わたしたちに対する神さまの知恵であり必然なのです。神さまの導きのうちに、わたしたちは主イエスの福音という宝を発見し、さらにその宝を輝かし人々に希望を与える人生へと導かれるのです。

 最後のたとえは、漁師が地引網で漁をした後、獲った魚を「良いものは器に入れ、悪いものは投げ捨てる」というたとえです。良い魚とは食べられる、売り物になる魚です。ガリラヤ湖は魚の宝庫で、一部の魚は塩漬けされてローマにまで送られたそうです。でも、戒めによって、うろこのないものは食べてはならない魚ですから、捨てられました。主は「世の終わりにもそうなる」と、この様な選別が起こることを明らかにされます。宝は、見出しただけではいけないのです。わたしたちは、神さまの救いという網に捕えられた魚です。そうであれば「キリスト・イエスに捕えられているからです(フィリピの信徒への手紙3章12節)」というパウロのように「なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ(同13節)」走ることが、わたしたちの目標なのです。

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