1月のメッセージ「別の道に行く」

2018年1月1日

南房教会牧師  原田 史郎

 

「ところが、【ヘロデのところへ帰えるな】と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った」     (マタイによる福音書2章12節)

 

 クリスマスの礼拝で、主のご降誕をお祝いしたと思っていますと、早くも新年を迎えました。2018年は、1月7日(日)が第1日曜日ですが、この日は、新年第1主日礼拝であると共に、降誕節第2主日にもなります。キリスト教の見方からしますと、お正月や元旦の寿(ことほ)ぎは、クリスマスのお祝の中に包含されるのです。だが、日本的な感覚では、クリスマスと正月は別物で、キリスト誕生のお祝いは、紅白歌合戦や除夜の鐘(寺の鐘楼や幾つかの教会の鐘も登場しますが)、をもって終わり、神社仏閣への初詣でに切り替わります。この切り替わりは絶妙で、いささかの異和感も葛藤もなく、流れるように自然なのです。多神教の風土に醸成された日本人のシンクレティズム(重層信仰)のなせる業で、良し悪しはさて置き、これが日本人の一般的な市民宗教なのだと思います。

 ある人が、「何故、キリスト教は日本で伸びないのか」という問いに「日本人は、生まれる時は神道、死ぬときは仏教で、その間にキリスト教がある」と言いました。キリスト教は通過地点にはなりますが、終生信仰を貫くとか、信仰を抱いて天国に行くという終末信仰にはなりにくい精神構造があるのだと思います。

 このような一般的な見解に対して、わたしはもうひとつの大切なことが欠落しているのだと思います。それは、東方の学者(博士)たちが、救い主イエスに出会って、そこから、今までの道と違った道を行ったような、主との真の出会い無かったからではないかと思うのです。クリスマスが、プレゼントをもったサンタクロースは登場しても、そこにはキリストの出番はなく、幼子とそれにまつわるメッセージは聞かれません。

人生を変える真の出会いには、必要な要件が幾つかあると思います。始まりは、真剣な「求道心」です。求めない者には何も与えられることはありません。学者たちは、はるか東方で、ひときわ輝く星を見て、アラビヤ、バビロン、ペルシャともいわれる遠い国から、危険をものとしないで、はるばるユダヤの地まで旅したのでした。さらに、諦めない「継続」です。彼らを導いた星は、エルサレムに到着したとき見えなくなりました。でも、彼らは新しい救い主は、何処に生まれるのか尋ね求めます。そして、そこはベツレヘムだと知らされ、再度出立して幼子イエスに出会い、持参した「黄金、乳香、没薬」の宝物を捧げ「礼拝」しました。この方こそ主であると認めその前に謙り、礼拝を捧げたとき、そこに真の神とわたしたちとの出会いと交わりが生まれるのです。

 ノーベル生理学・医学賞を受賞した大村智氏(北里大学特別栄誉教授)は、「僕は、研究者には『思いようにいかないところに、新しい道がある』と言っている。行き詰って、うまくいかない時こそがチャンスだ」(『選択』2018年1月号)とインタヴューに答えています。最も、同氏によれば「ふだんから体力と気力を充実させ、人との出会いを大切にする。そして研究に邁進する。この三つのバランスが重要で、僕は『黄金の三角形』とよんで、どれが欠けてもうまくいかない」(同誌)と言っています。人々の苦しみからの解放を成し遂げた研究は、この絶え間ない求道と精進(継続)の歩みから生まれたのでした。

 今、日本を巡る内外の情勢は、行き詰りと混迷の様相を濃くしています。この2018年が、わたしたちにとって、別の新しい道を切り開くのか、それとも安楽な旧態依然とした衰退と滅亡への道に行くのか、一つの分かれ目でしょう。聖書との出会いを通して、東方から来た学者たちのように、わたしたちの所に来られた救い主キリストと出会い、新しい別の道が開かれますように祈ります。

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