2月のメッセージ「力強く、さらなる高みへ」

2018年2月4日

南房教会牧師 原田 史郎

 

「わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです」

(ローマの信徒への手紙14章8節)

 

 今年の相撲界は、横綱日馬富士の暴行問題に端を発して大揺れに揺れ、また、次々に不祥事が発覚して、一時は大相撲人気の低迷が心配されました。でも、初場所が始まると、白鵬、稀勢の里の両横綱の休場にも拘わらず、下位力士の奮闘で、両国国技館は満員の盛況になりました。そのような中で、前頭三枚目、ジョージア出身の「栃の心(とちのしん)」は、14勝1敗で初優勝を決めました。一時、右ひざの大けがで幕下まで落ち、何度か相撲を止めようかとさえ思ったそうですが、見事に復活を成し遂げ、観客の歓声を受けていました。また、殊勲、技能賞のダブル受賞で、本人が言うように、最高の気分だというのも最もだと思います。横綱鶴竜が後半、弱気になったのか、押しまくられるとつい引いてしまい、相手を呼び込んで負けてしまうのとは対照的に、前へ前へと押し出していく積極的な相撲が印象的でした。

 この栃の心の力強い優勝の原因について、何人もの評論家が話をしていますが、わたしは、ある解説者が言ったことが心に残りました。それは技術的な相撲の取り方もさることながら、何よりも精神的に強くなった、という言葉です。それでは何故強くなったのかというと、その解説者は、ジョージアにいる妻が赤ちゃんを産み、その子のために力が出てきた。まだ相撲の「すの字」もわからない娘に、お父さんはお前のために頑張ったよ、というメッセージを送りたかったというのです。遠い外国から、言葉も風習も分からない異国に来て、しかも単身で苦闘している栃の心に、その子は希望とやる気(勇気)を与えたのです。

 わたしたちの元気の秘密、原動力は、やはり愛する人を喜ばせたい、ということが大きいのではないかと思います。自分をいくら喜ばせても、一時の満足は得られるかも知れませんが、やがて飽きと倦怠で、しかも自己中心の生活は、周りに何も生み出すものがありません。

古い「たらい」の話しがあります。たらいの水を自分の方にいくら掻き寄せても、水は手に脇から向こうへと洩れ出てしまいます。しかし、同じたらいの水を相手の方に追いやると、その水は自分の方に還って来るのです。わたしは何のために生きているのだろうか、という問いは、わたしは誰のために生きているのだろうか、ということでもあるのだといえるでしょう。

使徒パウロは、「わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです」と言いました。それは彼の内には、死も命も、天使や力あるものなどどんなものでも「わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです(ローマの信徒への手紙8章39節)」という確信があったからです。

 愛する家族のために生きること、そこから隣人と生きる大切さを学び、遂にはわたしを愛し、命を賭けて救ってくださったイエス・キリストを愛する生涯へと導かれるとしたならば、どんなに素晴らしいことでしょう。因みに、栃の心有終14勝のある新聞の見出しは、「力強く、さらなる高みへ」でした。

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