9月のメッセージ「神に望まれる者」

2018年9月2日

南房教会牧師 梁 在哲(ヤン ジェチョル)

 

イザヤ書62章4節

ルカによる福音書第222-38

私どもの南房教会は毎年9月第二の主日礼拝において高齢の方々を覚えて「敬老の祝福の祈り」をささげて、高齢の方々の信仰と人生の大事な経験をともに分かち合う良い伝統を受け継いでいる。ある高齢の宣教師は、老人の恵みをこう言われた。「長生きすることは素晴らしいことです。それは神の恵みを長く、いつまでも経験出来るからです。」

ところが、ある大先輩の牧師は現代社会において「老人の位置の喪失」は「経験」の意味の喪失と深く結び付いている、と言われた。確かにおびただしい情報が洪水のように溢れている現代において老人の経験は軽んじられ、「老人」と言う言葉自体が、敬遠される時勢となっていることも否めないのである。

しかし、聖書の御言葉は聖霊に導かれて幼子イエスに出会い、証をし、イスラエルに御救いをお与えになる神に讃美を捧げる高齢のお二人の預言者の経験のことを伝えている。聖霊の御導きによって神殿の境内に入った高齢の預言者シメオンは、幼子イエスとご両親に出会って幼子イエスを腕に抱き、神に讃美を捧げてヨセフとマリアご両親を祝福して母親マリアには主イエスのご受難と十字架の道を告げた。

もう一人の高齢の預言者アンナが、幼子イエスに気づき、近づいて神に讃美を捧げた。高齢のお二人は聖霊に導かれて幼子イエスに出会い、証をし、イスラエルに御救いをお与えになられた神に讃美を捧げて「神の御恵み」を経験させていただくようになったのである。

人間の生涯を通して老いとは「神の御恵み」を経験させていただくことであると思われるが、殊にご自分の独り子をお与えになったほどに世を、そして私たちを愛してくださった「神の御恵み」を経験させていただくことではないだろうか。

また、私たちは主日礼拝ごとに改めて神の御恵みを経験させていただいているが、それは復活なさった主イエスが弟子たちに「罪の赦しの権威」をお与えになられて、私たちに洗礼において一回限りの罪の赦しが宣言され、主日礼拝と聖餐式において繰り返してその罪の赦しが再確認され、喜びと感謝をもって世に遣わされることではないだろうか。どうか私たちは神の御恵みを経験させていただく者として御名を褒め称える生涯を貫いて老いてゆく者でありたいと願うのである。

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