11月のメッセージ「まことの葡萄の木」

2018年11月4日

南房教会牧師 梁 在哲(ヤン ジェチョル)

 

ヨハネによる福音書1515

私どもの日本基督教団の教会は毎年11月の最後の主日を「収穫感謝主日」として守り続けているが、今月のメッセージに因んだ「まことの葡萄の木」の御言葉は父なる神ご自身、御子なる主イエスを通してお与えになられる収穫の惠みを私たちに伝えている。御子なる主イエスはご自分を失敗した葡萄の木とは全く違う「まことの葡萄の木」でおられることを言われる。それは預言者たちの預言とは裏腹にイスラエルの民が「失敗した葡萄の木」となってしまったからである。そして父なる神を、ただ厳しい主人ではなくて「まことの葡萄の木」を見守ってくださる慈愛に満ちた農夫でおられる、と言われた上で受難の道‐ ご自分の十字架への道‐ に進まれる前に豊かに実を結ぶ「葡萄の木」のような者になりなさいと、弟子たちに命じられた。「私はまことの葡萄の木、私の父は農夫である。」(ヨハネ15:1)

豊かに実を結ぶ枝は、「まことの葡萄の木」でおられるキリストに結ばれて「教会のかしらなる主イエスこそ、我らの命の源でおられる」ことを告白する群れであるが、しかし実を結ばない枝は「まことの葡萄の木」でおられる主イエスこそ、唯一の命の源でおられることを知らない群れである。父なる神は私たちが清い者となれるように手入れをなさるが、それは枝が葡萄の木にしっかりとつながっているように長い時間をかけてやらねばならない苦しみを伴うことでもあり、ただ御子なる主イエスを通して与えられる御惠みのみによって許されるまことの実である。「私につながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。」(ヨハネ15:2)

私たちは「まことの葡萄の木」の御言葉を通して父なる神の収穫の惠みに与っているが、「まことの葡萄の木」でおられる御子なる主イエスにしっかりとつながってその実が豊かに結ばれる時、最も喜ばれるお方は、葡萄畑を耕してくださる父なる神ご自身ではないだろうか。私たちは聖霊の御助けによって「まことの葡萄の木」の絶えない「命の力」、即ち御子なる主イエスの「十字架の愛の力」と死に打ち勝つ「復活の力」を仰ぎつつ、繰り返して耕してくださる父なる神に全てを委ねて地上の旅路を歩み続けたいと切に願うのである。

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