12月のメッセージ「共におられる救い主」

 

 2019年12月1日

南房教会牧師 梁 在哲(ヤン ジェチョル)

 

イザヤ書7章14節   ヨハネによる福音書145

いにしえの預言者イザヤは、救い主メシアのご誕生をこう預言した。「それゆえ、私の主が御自ら、あなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ」(イザヤ7:14)。インマヌエルの意味は、「神は我々と共におられる」、ということであり、イエスとお名前は「主がお救いになる」、というギリシャ語で、ヘブライ語では、ヨシュアと言い、「主は我らの救い」の意味を持っている。

「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」(ヨハネ1:4~5節)。光から遠く離れれば、離れるほど暗くなるように、人間は神から遠ざかりになればなるほど、その人生は暗くなり、その罪は明らかになる。父なる神は、御子主イエスを通して私たち人間を訪ねられて、共におられる道を求められた。父なる神は、御子主イエスを世にお遣わしになり、インマヌエルとして私たちと共におられることを願われたのである。

そして、父なる神は私たち人間と共におられて人間を罪から救われることを願っておられた。何故なら、父ある神が私たち人間と共におられる時こそ、人間は罪から遠く離れて、御救いが成し遂げられるからである。その時こそ、父なる神は御子主イエスを通してインマヌエルとして私たちと共におられるからのである。神ご自身が人間になられて最も貧しく低い所でお生まれになられた。そして、貧しい人、病人、徴税人ややもめまた、娼婦にいたるまで人々より疎まれている者といつも共におられた。

私たちは、慰めや励ましの言葉さえ、見当たらないまま、誰かの傍らに立ち尽くし、共にいる難しさを良く知っている。しかし、相手に語りかける言葉さえ、持たないまま、居合わせているその時、インマヌエルとして主が共におられるゆえに、私たちも、人々の傍らにいることを許されているのではないだろうか。それゆえに私たちは、「インマヌエル」として来られた主の良い知らせを携えて人々の傍らに共にいることを許されているのではないだろうか。このアドベントの時、御子主イエスのご来臨を待ち望みつつ、大いなる父なる神の御業を褒め称えたいと願うのである。

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