3月のメッセージ「わたしには確信がある」

 

202031

南房教会牧師 梁 在哲(ヤン ジェチョル)

 

詩編27篇1~4節

 2019年度は、度重なる自然災害や最近猛威をふるっている新型コロナウイルス感染症の余波を受けて大変な1年であったと思われる。殊に新型コロナウイルス感染症は、未だに現在進行形の状態となっている。しかし、このような厳しい状況の中でも私どもの南房教会は、全てにおいて全てのものにまさる主の恵みと、よき交わりに、あずからせていただいたことを心より感謝しつつ、過ぎた一年間を顧みたい。平穏な日々を過ごす中で、わたしたちは、しばしば訪れる恐れや不安な思いを感じ、厳しい出来事に見舞われる度に、その恐ろしさが募るばかりである。しかし、人によって自然災害や事故、また感染症のようなもの以外にも、恐れや不安を感じるようになるのではないだろうか。ある者は戦争や紛争を、ある者は、テロ行為などのような突発的な出来事のために恐れや不安に陥ると思われる。

詩編の記者ダビデは、その恐れや不安を誰よりも、身をもって感じていた者の中の一人であった。彼は数多くの戦いの中で敵やサウル王、また自分の息子アブサロムに追われるまで極限の状況を切り抜けた人であった。ダビデにとって戦いは、何よりも恐れの源となっていたのではないだろうか。戦いになると、彼我両方ともに悲惨な目に遭い、一瞬間命は勿論、全てを失ってしまうことを彼はよく知っていたからである。ところが、ダビデは、野獣のような敵が「自分の肉を食い尽くそうとし、自分を苦しめる」(詩編27:2)時も、また軍勢のような敵が、「自分を取り囲み、陣を敷いても、また自分をさいなむその敵が迫り、戦いを挑んで来ても、おののくどころか、自分には確信がある」(詩編27:3)、と告白している。誰よりも悲惨な戦いの修羅場を潜り、その苦しみを凌いで来たダビデなのに彼は何故、このように大胆な告白をしたのだろうか。それは、数え切れない戦いの中で、自分が経験して来た神が、どのようなお方でおられるかを、ダビデは確信していたからではないだろうか。

それゆえ、ダビデは、「神を自分の光と救いと命の砦でおられる」と(詩編27:1)、告白したのである。神は、ダビデが瀕死の暗闇に包まれていた時、命の光を照らし、救ってくださり、砦のように確かな命の力を授けてくださった。使徒パウロも、そのダビデの告白をこう証した。「もし、神がわたしたちの味方であるならば、誰がわたしたちに敵対できますか」、と(ローマ8:31)。たとえ、戦争でなくても、わたしたちの前には、様々な恐れの対象は、必ず置かれていると思われる。しかし、ダビデは、敵が戦いを挑んで来ても、陣を敷いても、全てにおいて全てのものにまさる神が、共におられる時、恐れることはないと、告白している。それゆえ、わたしたちは、未曽有の恐れや不安が、荒波のように押し寄せて来る今日こそ、全てにおいて全てのものにまさる神に畏れ敬う真心をもって仕えなければならないと思う。そして、詩編の記者ダビデが願ったように命のある限り、神を仰ぎ望みつつ、まことの交わりの喜びにあずかりたいと切に願う。

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