7月のメッセージ「喜びの源

 

2020年7月5日

南房教会牧師 梁 在哲(ヤン ジェチョル)

 

詩編100篇1~5節   ガラテヤの信徒への手紙第219-21

宗教改革者ルータは、ガラテヤ書を「私の手紙であり私の妻である」と言い、本書はローマ書と共に小ローマ書と呼ばれるほど宗教改革の根拠として見做されて来た。当時、ガラテヤ教会の中に入り込んだユダヤ人たちの律法主義は、主イエスを信じても律法を厳守し、割礼を受けなければ救われない。また、十字架の贖いを否定して福音の本質を歪曲してしまうものであった。それゆえ、使徒パウロは、ガラテヤ教会の危機に対処するためにこの手紙を書くようになった。パウロは、教会宛の手紙にいつも聖なる者、聖徒と呼び続けて来た。何故なら、神ご自身が聖なるお方でおられるから、その民も聖なる者となれるからであった。喜びも同じものであって人間同士との関係ではなく、神と人間との関係においての喜びである。

 このように聖なる者も喜びも、また私たちの教会生活もイエス・キリストに結ばなければ、得ることはできない。統計によれば日本の受洗者の平均教会出席年数は、2.5年から3年と言われている。これは洗礼を信仰の出発点ではなく、終着点と認識しているからではないだろうか。本書の箇所は、神に信頼を寄せ、イエス・キリストに結ばれた信仰生活の出発点を明らかにしている。それは、古い者は、主の十字架において主と共に死ぬことになり、私たちの内に主は、生きておられ、私たちは、主を信じる信仰に生きるのである。イエス・キリストに結ばれる者は、洗礼を受け、主のものとされ、神を父と呼ぶことが許される。

勿論、嘆きのことや苦しみ、心配のこともあるかも知れない。しかし、主に結ばれているこの一点においてもっと深い喜びがそこにある。私たちは、主のものとされた自分を、そして他者をも主のものとして受け取らなければならない。もし、そうしなければ、他者をあまり軽く考え過ぎたり、恐れ過ぎたりしてしまうことになる。私たちは、主イエスとの交わりのゆえに、また兄弟姉妹との交わりのために、主イエスに結ばれる聖餐の恵みに繰り返してあずかり、主に仕える。主ご自身私たちの罪の贖いのために十字架の上でご自身を捧げられたからである。今も主イエスは、「喜びの源でおられる父なる神の喜びの中に入りなさい」と、語りかけてくださる。

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