9月のメッセージ「キリストの時

 

202096

南房教会牧師 梁 在哲(ヤン ジェチョル)

 

ヨブ記28章12~28節   ヨハネによる福音書7章40~52節

仮庵祭の終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で 「渇いている人はだれでも、 わたしのところに来て飲みなさい。わたしを 信じる者は、聖書に 書いてあるとおり、その人のから生きた水が川となって流れ出るようになると言われた」(ヨハネ7:37~38)。この言葉を聞いて、 群衆の中には、「この人は、本当にあの預言者だ」と言う者や、「この人はメシアだ」と言う者、そして「メシアはガリラヤから出るだろうか」と冷やかな反応を示す者もいた(40~41節)。こうして、 イエスのことで群衆の間に対立が生じた(43節)。ところが、分裂と対立は、2千年の教会の歴史において絶えず生じたものである。さて、宗教指導者たちの強引なやり方に従い、下役たちは、イエスを捕まえようとした。しかし、イエスが十字架で亡くなれる「キリストの時」は、まだ来ていなかったから(30節)、手をかける者はいなかった(44節)。

仮庵祭の第8日目の安息日にもかかわらず、宗教指導者たちは、議会に集まり、下役たちが戻って来た時、「どうして、あの男を連れて来なかったのか」と責めた(45節)。そこで下役たちは、「今まで、あの人のように話した人はいません」と答えた(46節)。彼らはどんな哲学者もラビも今まで、このナザレのイエスのように語る人はいないと素直にありのままのことを告げた。しかし、彼らの証言は2千年が過ぎた今も依然として有効なものではないだろうか。すると、ファリサイ派の人々は、イエスを捕まえて連れて来るどころか、むしろ尊敬するような下役の報告に激しく怒り(47節)、ついに、その憤りは、民のほうに向けられ、呪いに変わった(49節)。ところが、彼らの中の一人で、以前イエスを訪ねた来たニコデモの思わぬ反論に宗教指導者たちは、驚きを隠せなかった(50~51節)。

律法によれば、先ず訴えられた者の陳述を聞き、その行為を審査する前には、罪に定めることは出来ない(申命記1:16~17)と指摘されたからである。そこでファリサイ派の人々の怒りは今度、仲間に向けられ、ついにガリラヤ地方のほうに向けられた。彼らはニコデモの正しい指摘に反省するどころか、開き直って「あなたもガリラヤ出身なのか」と攻撃した。その上、「ガリラヤからは預言者の出ないことが分かる」と決めつけてしまった(52節)。しかし、彼らの矛盾と律法違反を正しく指摘したニコデモは、イエスについては証しなかった。ニコデモも、またイエスの弟子でありながらユダヤ人の目を恐れていたアリマタヤ出身のヨセフも「キリストの時」を知らなかったからである。

古代ギリシア人たちは、過去、現在、未来といった時の流れ(クロノス)と特別な出来事をもって時が満ちる瞬間(カイロス)を見分けていたが、それらは永遠とは無関係なものであった。しかし、聖書の御言葉は、神の永遠が人間の時間の中へ突入して来るという仕方で時が満ちると伝えている。すなわち、「時が満ちると、神はその御子をお遣わしになり」(ガラテヤ4:4)、御子は、「時は満ち、神の国は近づいた」と宣べ伝え(マルコ1:15)、「定められた時にご自分を全ての人の贖いとして献げられ」(テモテⅠ2:6)、「こうして、時が満ちるに及んで救いの業が完成され、あらゆるものが頭であるキリストのもとに一つにまとめられる」時を伝えている(エフェソ1:10)。

神学者カール・バルトも「初めから終わりに至るまでの時間の広がり全体は、(中略)丁度子どもが母の腕に抱かれているように永遠の中にある」と述べた。天地万物と共に時間をも創造されたゆえに、神の永遠は、その時間に先立ち、時間に同伴し、時間を成就するからである。そして、時を満たしてくださった主が再び来られるのを待ち望むこと無しには、わたしたちの時間は、絶えず無方向であり、無目標である。それは、大海原で揺れ動く小舟のような、また真っ暗闇の宇宙空間で時間の流れを感じられないようなものである。それゆえ、「初めであり、終りである」(イザヤ44:6)永遠なる神だけが、時の中で死に行くわたしたちに御子を通して永遠の命を授けられる。こうしてわたしたちは、主が再び来られ、あらゆるものがキリストのもとに一つにまとめられる「キリストの時」を待ち望みつつ、この地上の旅路を歩み続けたいと願う。

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