7月のメッセージ「霊であり、命である御言葉」

2021年7月4日

南房教会牧師 梁 在哲(ヤン ジェチョル)

 

ヨハネによる福音書6章60~71節      

コロナ禍に見舞われている多くの教会が、対面方式の礼拝と非対面方式、或いは両方を合わせたいわゆる、ハイブリット方式の礼拝を強いられている中で、私どもの南房教会は、従来通りに対面方式の礼拝をささげている。しかし、対面方式の礼拝と言われても、コロナ感染防止策のためマスクの着用や時間短縮など様々な制限に縛られ、礼拝後のいわゆる、「聖徒の交わり」になかなかあずかれない現実に直面している。このような諸事情を踏まえ、7月中旬に行われる恒例の一日教会修養会の主題を「聖徒の交わり」とし、昨年度同様に非対面方式で祈りつつ、話し合う予定である。礼拝後のいわゆる、「聖徒の交わり」を巡って戸惑いや躓きを覚えることのないよう切に願っているからである。

ヨハネによる福音書には、イエスの話を聞いて戸惑いや躓きを覚え、イエスを離れ去る者が出て来る。「わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである」と言われるイエスの話を聞いて弟子たちの多くの者は、「実にひどい話だ。誰がこんな話を聞いていられようか」と不満を露わにした(ヨハネ6:60)。イエスの話に戸惑いを覚えたのは、ユダヤ教の指導者たちだけではなく、弟子たちもそうであった。彼らは、御父より世に遣わされ、天から降って来られた御子なるイエスのことをまだ、信じていなかったからである。それゆえイエスは、「あなたがたはこのことにつまずくのか」と問いただし(61節)、「命を与えるのは、霊である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は、霊であり命である」と言われた(63節)。

イエスは、人間の願望や知識など、様々な思いをもって注いだ努力だけでは、聖霊より与えられる「命」には、到底辿ることは出来ないと言われた。イエスは、聖霊に頼らず、自分の願望にのみ賴っている者に、「父からお許しがなければ、誰もわたしのもとに来ることは出来ない」と再び厳しく言われた(65節)。「このために弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった」(66節)。イエスの真理のメッセージを聞けば聞くほど、人々の思いは、真っ二つに割れた。真理のお言葉をもっと聞きたいと願う者と、お言葉につまずき、イエスを拒み、その場を立ち去る者と明確に分かれた。そこでイエスは、今までご自分に従って来た多くの弟子たちが立ち去った後、12人の弟子にも、「あなたがたも離れて行きたいか」とお聞きになった(67節)。

すると、シモン・ぺトロが、「主よ、わたしたちは誰のところへ行きましょうか。あなたは永遠の命のお言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています」と告白した(68~69節)。「あなたがたも離れて行きたいか」と問われるイエスに答える道は、イエスを自分の救い主として受け入れ信じるか、それともイエスを拒み、離れて行くか、二つの道しかない。しかし、イエスは厳しい選択の岐路に立たされている者に「御言葉は、霊であり、命だからそれを本当の自分のものにするためには、命をお与えになる聖霊に依り賴らなければならない」と言われた。今も御子なるイエスは、父なる神の右に座しておられ、「命を与えるのは、霊である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は、霊であり命である」と、慰めのお声をもって執り成してくださる。

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