10月のメッセージ「まことの礼拝」

20211010

南房教会牧師 梁 在哲(ヤン ジェチョル)

 

詩編43篇4節    ローマの信徒への手紙12章1節      

神の祭壇にわたしは近づき、わたしの神を喜び祝い、琴を奏でて感謝の歌をうたいます。神よ、わたしの神よ。  — 詩編43:4

キリスト者にとって最も望ましくないことは、信仰生活を、殊に礼拝を誰からの強いられた義務として見做すことにあると思われる。しかし、わたしたちが神の御前に進み出て、近づくことは、驚くべき特権である。詩編の記者は、その大きな喜びの神を歌っているが、他の聖書では「極楽の神」と訳されている。仏教を連想するような極楽という表現が用いられる程、詩編の記者は、極めて安楽な場所と境遇の神を歌っているからである。神に出会った人は、その親密な関係の中で、世から得ることのできない真の喜びを得、その喜びのゆえに、神にもっと依り頼るようになる。その大きな喜びは、神の御前で世のどのようなものと比べることのできないものである。それゆえ、詩編の記者は、大きな喜びの神を「極楽の神」とも歌っているのである。

使徒パウロは、神の御前に進み出て、近づき、「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい」と勧め、「これこそ、あなたがたのなすべき礼拝である」と証した(ローマ12:1)。まことの礼拝は、自分の体を神に喜ばれる聖なる供え物として、また生きる日々の全てを捧げることである。その霊的な礼拝は、神殿の庭や教会の建物に縛られることなく、日々の日常の中で捧げられるものである。旧約の時代において礼拝は、限られた場所で捧げられた。しかし、キリスト者は、自分の体が神の神殿であり、神の霊が自分のに住んでおられるゆえに、どこでも礼拝を捧げることを許されている(コリントⅠ3:16)。それゆえ、わたしたちは、主日礼拝だけにとどまることなく、日々の生の営みにおいてもまことの礼拝を許された者として大きな喜びの神を褒め称えたいと願う

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