12月のメッセージ「謙遜な御姿を仰ぐ」

2021125

南房教会牧師 梁 在哲(ヤン ジェチョル)

 

                                       

イザヤ書3817節     ヨハネによる福音書1章1828

ユダヤ教の指導者たちは、洗礼者ヨハネの正体をもっと詳しく把握しょうと祭司やレビ人たちをヨハネのもとへ遣わした。洗礼者ヨハネの名が広がり、もしかしたら彼こそ、メシアではないかと、思う者が増え続けていたからである。ところが、洗礼者ヨハネの証しは、偽りのない、率直な答えであった。主イエスご自身も、山上の説教で「あなたがたは、『然り、然り』、『否、否』と言いなさい。それ以上のことは、悪い者から出るのである。」と言われた(マタイ5:37)。それゆえ、洗礼者ヨハネは、自分は、メシアでもなければ、エリヤでもない、またモ-セが預言した預言者でもないと答えた。ついに遣わされた者たちは、焦りを感じはじめ、もっと明確な答えを促した(22節)。今まで「否、違う、そうではない」と拒み続けた洗礼者ヨハネは、「私は荒れ野で叫ぶ声である。主の道をまっすぐにせよ」(23節)と答えた。彼は、メシアこそ、「御言葉」として来られて自分は、「叫ぶ声」に過ぎないゆえに、「御言葉」なしの「声」は、何の意味を持ってないと、悟っていたからである。ところが、遣わされた者の中であるファリサイ派の人々が、その様子を見て、「あなたはメシアでも、エリヤでも、またあの預言者でもないのに、何故洗礼を授けるのですか」、と尋ねた(25節)。ユダヤ教の洗礼はユダヤ教へ改宗する異邦人のために施される入門の儀式であった。

そのような儀式をユダヤ人たちに「洗礼を受けなさい」と、叫んでいたのでファリサイ派の人々は、その理由を求めた訳である。そこでヨハネは、「私は水で洗礼を授けるが、あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。その人は、私の後から来られる方で、私はその履物のひもを解く資格もない」と答えた(26~27節)。彼は、主こそ、「この世の罪を取り除くために、この世に遣わされた神の独り子でおられる」ゆえに、自分は主の道を整え、まっすぐにする準備をしながら、悔い改めを叫び者だと証した。ところが、わたしたちは、自分を「なくてはならない存在」だと思い込む誘惑に身をさらされている。使徒パウロは、自分を低くする謙遜さについて「神はその力を働かせて私に恵みを賜わり、この福音に仕える者として下さいました。この恵みは、聖なる者たち全ての中で最もつまらない者である私に与えられました」と告白した(エフエソ3:7~8)。コロナの影響で苦しい思いを強いられて来た一年間を振り返り、わたしたちの罪と咎、すべてをご自分の後ろに投げ捨ててくださる父なる神の御慈しみを覚える(イザヤ38:17)。御子イエスのご誕生を待ち望みつつ、感謝と悔い改めの祈りをささげるアドベントの時、人間の姿で現われ、謙って、十字架の死に至るまで従順でおられた御子イエスの御姿を仰ぐ。そして、日々の信仰の歩みの上に聖霊の御助けを切に願う。

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