9月のメッセージ「人を生かす自由を貫かれた主」

202294

南房教会牧師 梁 在哲(ヤン ジェチョル)

 

ヨハネによる福音書8章31~38節 

主イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに「わたしの言葉にとどまるな

らばな、あなたたちは、本当にわたしの弟子である。あなたたちは、真理を知り、真理は、あなたたちを自由にする」、と言われた(ヨハネ8:31~32)。主は、「御言葉にとどまり続ける」ように求めつつ、真理であられるご自身、人々を自由にしてくださると、言われた。主は、罪と死の奴隷となっていた人々を解き放ち、まことの自由に生きるように十字架の上で、ご自身を身代金として払われたからである。それゆえ、人々は、単なる無知から解放されるのではなく、罪と死の奴隷から解き放たれ、まことの自由に生きることを許されるのである。

哲学者パスカルは、御言葉にとどまることについて「神の真理は、この地上にその故郷を持たない。御言葉が聞かれる時、それはただ誤解され、ねじ曲げられるだけである。私たちの中に神の御言葉が根を下ろさず、教会の中に御言葉の故郷を見出せない。それを深く悲しむことによって私たちの心が広がり、悔い改めるようになる」、と述べた。それゆえ、「御言葉にとどまり続ける」ことは、わたしたちが主イエスの内にとどまり、またそれと同時にわたしたちの内に主イエスがおとどまりになることに他ならない。

その意味において「人間の肉体は、具体的であり、歴史的な世界に場所を占めている。その場所を主イエスが占め、支配されるのでなければならない。キリストが人間の心と体を一つにして、それを支配されるそれこそが、信仰の受肉である」、とある大先輩の牧師は述べた。御言葉にとどまり続け、罪と死の鎖から解き放たれるわたしたちの前に主の弟子として自由に生きる新しい道が開かれる。わたしたちは、主に従う者としてその恵みに励まされ、ご自分を身代金として十字架に捧げられ、「人を生かす自由」を貫かれた主を仰ぎつつ、自由に生きる新しい道を歩み続けたいと願う。

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