11月のメッセージ「お前の名は何というのか」

2022116

南房教会牧師 梁 在哲(ヤン ジェチョル)

 

創世記32章26~31節

長引くコロナの影響で日常生活の様々な場面で「対面式と非対面式」という言葉がよく用いられるようになり、同じ空間で顔と顔を合わせた上で意思疎通を図ることの重要性に改めて気づくようになったと思われる。教会の礼拝も例外ではなく、コロナ禍の中で我々は、対面式の礼拝の際、マスクの着用や換気と時間短縮、また手の消毒など様々な工夫をしながら礼拝に臨むようになった。

ところが、ヤコブは、我々のそのような工夫を遥かに超え、自分の命をかけて主なる神と顔と顔を合わせ、対面式の礼拝を捧げた。ヤコブは兄エサウと再会する前に、自分の家族全員を導いてヤボク川を渡らせた後、独り後に残った。その時、ヤコブは主なる神の使者と夜明けまで格闘したが、使者はヤコブに勝てないとみて、腿の関節を打ったので、格闘をしているうちに腿の関節がはずれた。

しつこくしがみついて来るヤコブに使者は、「もう去らせてくれ。夜が明けてしまうから」、言った。ところが、ヤコブは、怯むことなく「いいえ、 祝福してくださるまでは離しません」、と答えた。ついに、ヤコブは、使者から「お前の名は何というのか」、尋ねられ、「ヤコブです」、と答えた。すると、天使は、「お前は神と人と闘って勝ったからお前の名は、もうヤコブではなく、これからはイスラエルと呼ばれる」、と言った。

人の名前は、単純に呼びとなえることだけではなく、その人の存在を表わすものである。それゆえ、「お前の名は何というのか」、と尋ねられたことは、「ヤコブ、お前は今までどのような存在として生きて来たのか」、という問いかけに他ならない。ヤコブは、煮物一杯で兄エサウより長子の権利を譲ってもらい、父イサクからも祝福をだまし取ったずる賢い者として巧みに人を欺いて祝福を奪い取ろうとした存在として生きて来た。

しかし、そのようなヤコブを主なる神は、その場で祝福した。そこで、今までのヤコブの存在と生き方は、完全に打ち砕かれ、ヤコブは、イスラエルとして新しく生まれ、「ベヌエル(神の顔)」の朝を迎えるようになった。暗闇は過ぎ去り、輝かしい朝を迎え、新しく生まれたイスラエルは、主なる神と顔と顔を合わせることを許された存在として創り変えられたのである。

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