12月のメッセージ「自由の身にしてくださるキリスト」

2022124

南房教会牧師 梁 在哲(ヤン ジェチョル)

 

出エジプト記3章13~14節   ガラテヤの信徒への手紙5章1節

「この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷のくびきに二度とつながれてはなりません」(ガラテヤ5:1)。

自由と言う言葉は、物事を自ら進んで行い、主体となって働きかける者のみに与えられる賜物ではなかろうか。それゆえ、旧約聖書において自由という言葉は、出エジプトの出来事を通して主なる神がヘブライ人たちにお与えになられた賜物に他ならない。ヘブライ人の奴隷たちをエジプトの国から解放してくださるため、主なる神は、モーセをお召しになられた。

その時、モーセは、神に尋ねた。「わたしは、今、イスラエルの人々のところへ参ります。彼らに、『あなたたちの先祖の神が、わたしをここに 遣わされたのです』と言えば、彼らは、『その名は一体何か』と 問うにちがいありません。彼らに何と答えるべきでしょうか。」 神はモ―セに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある 』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと」(出エジプト3:13~14)。

何故主なる神は、ご自分のことをそのように言われたのか。それは、主なる神は、エジプトの国で奴隷となっていたヘブライ人たちも、ご自分のように主人なる「わたし」と、なれるように願っておられたからである。罪と死の力の奴隷となっていたわたしたちに主イエスは、「あなたたちは、真理を知り、真理は、あなたたちを自由にする」と、その自由の道をお示しになられた(ヨハネ8:32)。その真理こそ、福音であり、福音の本質は、自由であるからである。

それにも関わらず、わたしたちは、主人なる「わたし」と、なるどころか、むしろ奴隷のくびきにつながれて喘いでいた。それゆえ、主イエスは、二度と奴隷のくびきにつながれないようにわたしたちを自由の身にしてくださった(ガラテヤ5:1)。主イエスは、主人なる「わたし」と、なることを妨げるその奴隷のくびきを取り除いてくださった。わたしたちは、打ち砕かれた心を包み捕らわれ人には、「自由」を、つながれている人には、「解放」を告知させるために(イザヤ61:1~2)、この世に来られたイエス・キリストのゆえに、祈りを新たにしつつ、クリスマスを迎えたいと願う。

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