2月のメッセージ「いつものように祈る主」

202325

南房教会牧師 梁 在哲(ヤン ジェチョル)

 

 

ダニエル書6章8~11節     ルカによる福音書22章39節

ダニエルは、王が禁令に署名したことを知っていたが、家に帰るといつものとおり二階の部屋に上がり、エルサレムに向かって開かれた窓際にひざまずき、日に三度の祈りと讃美を自分の神にささげた(ダニエル6:11)。ダレイオス王は、向こう三十日間、自分を差し置いて他の人間や神に願い事をする者は、誰であれ獅子洞窟に投げ込まれるように禁令を出し、その書面に署名して禁令を発布した。それはメディアとペルシアの法律として変更不可能なものとなり、廃止することはできなくなるものであった。

しかし、ダニエルは祈ると、死ぬことを知りながらも日に三度の祈りと讃美をひざまずいて主なる神にささげた(6:8~11)。いつものように、ダニエルにとって祈りは、慣れ親しんでいたことであった。彼の祈りは、長く繰り返され、日々の暮らしの中に溶け込まれたからである。ダニエルのように日々、祈る習慣がなければ、そのような絶体絶命の危機の瞬間、ごく自然体に祈ることは、到底できないと思われる。

主イエスにとって祈りは、日々の暮らしであり、慣れ親しんでいたものであった。それゆえ、主は、逮捕され、苦しみを受け、十字架につけられることをご存じながらオリ-ブ山に行かれ、いつものように祈られた(ルカ22:39)。主は、既にご自分の使命を成し遂げる時が近づいていることをご存じの上で、いつものようにオリ-ブ山に行かれた。

主は以前、過越祭の晩餐を用意された際、イスカリオテのユダが自分の行き先を知らないように隠れた場所を探し出した。ところが主は、ユダが自分の行き先をすぐ探し出すようにオリ-ブ山に行かれた。主は、祈りの場所としてオリ-ブ山に行かれ、そこで逮捕を待っておられた。わたしたちは、主に仕える者として、主の祈りの模範に倣い、いつものように祈りつつ、委ねられたそれぞれの務めに忠実であり続けたいと願う。

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