10月のメッセージ「主の十字架を誇る者」

2023年10月1日

南房教会牧師 梁 在哲

 

「エレミヤ書9章22~23節」

「主はこう言われる。知惠ある者は、その知惠を誇るな。力ある者は、その力を誇るな。富ある者は、その富を誇るな。むしろ、誇る者は、この事を誇るがよい。目覚めてわたしを知ることを。わたしこそ主。この地に慈しみと正義と惠みの業を行う事。その事をわたしは喜ぶ、と主は言われる」(エレミヤ9:22~23)。 

人間は、誰でも「自分の優れているところ」を見せたくなり、自慢しようとする誘惑にさらされるのではなかろうか。使徒パウロも世に向かって誇るべき条件を沢山備えていたにも拘わらず、キリストの十字架のゆえに、それらを塵芥のように、捨てたと告白した。「肉にも頼ろうと思えば、わたしは頼れなくはない。だれかほかに、肉に頼れると思う人がいるなら、わたしはなおさらのことです」と明らかにした。しかし、「主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみて、キリストのゆえに、わたしはすべてを失い、それらを塵あくた、と見なしている」と告白した(フィリピ3:4~8)。

ところが、預言者エレミヤは、わたしたちが目覚めて、何を誇るべきかを告げている。「慈しみと正義と恵みの業をなされる」主なる神は、エレミヤを通して「ご自分を知ることを誇るがよい」と言われた(エレミヤ書9:22~23)。パウロは、自分の書簡の中で引用するほど、このエレミヤ書の箇所を大事にしていた。彼は、「だれ一人、神の前で誇ることがないようにするため、また、『誇る者は主を誇れ』と書いてあるとおりになるために神は、世の無学な者と無力な者また、無に等しい者と身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれた」と証した(コリントⅠ1:27~31)。

パウロは、アテネで哲学的な説教を試み、大失敗した辛い経験をきっかけに十字架の道を誇り、徹底的に従うようになった(使徒17:22~34)。それゆえ、「このわたしには、わたしたちの主イエス · キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません」と十字架の道を誇らしく告白している(ガラテヤ6:14)。わたしたちの罪のためにその独り子を十字架の犠牲にお与えになられた「父なる神の慈しみと正義と恵みの業」を覚えつつ、「聖霊の御助け」によって、「御子イエス・キリストの十字架を誇る者」であり続けたいと祈り、願う。

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