イエスの祈り

       2009517日 礼拝説教 原田史郎牧師

                       マタイによる福音書6章1~15節

 

 ユダヤ教の三大善行は、施し、祈り、断食です。ファリサイ派の人々は、この三つを実践していました。

 ところが彼らは、施しをするとき、人々の称賛を得ようと行っていたのです。そこで主イエスは、人々の称賛や誉められるためにではなく、「隠れたことを見ておられる父が報いてくださる」ことを覚えて、「右の手のすることを左の手に知らせてはならない」と言われました。

 このことは、祈りについても言えることです。彼らのする施しのように、偽善者であってはならない。

 祈りとは何でしょうか。祈りとは、神さまとお話しすることです。そのために、奥まった部屋に入り、「隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい」と主は言われます。この密室の祈り(デボーション・日々の祈り)は、必ずしも建物の部屋ではありません。神さまに集中する私たちの心の個室のことであります。祈りに大切なことは、人々にではなく、神さまに   ことなのです。

 また「くどくどと述べてはならない」と教えられます。エリヤがバアルの預言者たちと対峙したとき、彼らは、朝から昼まで、バアルよ、バアルよと、叫び続けました。だが、声もなく答えもありません。

 しかしエリヤは、簡潔に心を込めて祈りました。すると主の火が降ったのです(列王記上18:25~37参照)。

 神さまは、「願う前から、あなたがたの必要なものをご存じなのだ」と主は言われます。ことば数でなく、神さまに対する絶対的な信頼こそが重要なのです。この祈りを聞いてくださるという確信と信頼、そして祈りが神さまのみ心にかなうものであること。この二つを踏まえて主イエスは、私たちに「こう祈りなさい」と主の祈りを教えてくださったのです。

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