全ての人に及ぶ救い

2009726日 礼拝説教 原田史郎 牧師

ローマの信徒への手紙91928

「なぜ神は、なおも人を責められるのだろうか。」こういう問いから、今日の聖書は始まります。これは、「神は、憐れみたいと思う者を憐れみ、かたくなにしたいと思う者をかたくなにされる。」(9:19)と、パウロが語ったことを受けているのです。

なぜ、私が救われたのか、というのはひとつの謎です。私たちは、すべてに原因を求め、そこからの結果として、現実を納得します。これは一種の因果律の考え方なのですが、神の救いについては、当てはまりません。

パウロは、ここで焼物師のたとえを挙げます。粘土は、焼物師に、自分をなんでこの器にしたのか、と反論は出来ません。器は、焼物師の持っているイメージに基いて、その姿、デザインを表します。なんの特色もない粘土が、驚くべき形になるのです。

全ては、神の手の中、主権にあるのです。人間の思いを遥かに超えたところにある神の遠大にして広い計画。それは、神の子ではなかった私たちをも神の子とする大いなる救いであります。

それは、「怒りの器として、滅びることになっていた私たちを、憐れみの器として、栄光を与えようと準備していて」くださったことなのです。

この恵みの中に生かされていることを感謝しましょう。

前回 目次へ 次回