(とみ)

2009年11月22日 説教 望月麻生牧師

  マルコによる福音書10章17~31節

 自分たちの社会において何の価値もなく、自分たちが美徳とすることは何一つ守れないとされた人たちに、イエスさまは、「自分の持ち物を全て売り払って施せ」と、一人の金持ちの男におっしやいます。

 この人がそのとおりにしたならば、世間は彼が正気を失ったとして白い目で見るでしょう。人々は財産を失った彼から離れていき、ひとりぼっちになるでしょう。

 でも、イエスさまの眼差しは語ります。「男よ、あなたが求めている永遠の命は、あなたが何も持たない裸の自分になったとき、初めて気付くものであるのだ」、と。〈永遠の命を受け継ぐ〉とは、言葉を借りればヘンな言い方ですが、〈自分がよそ者にならない〉ということです。〈受け継ぐ〉ことは、捕囚として土地を追われ、その後も国を支配され続けたユダヤ人にとって、非常に大切な価値観です。金持ちの男の持っている財産というのは、この男ひとりが築き上げたものではなく、代々受け継がれてきたものであり、これからも継がれていく、つまり自分ひとりのものではありませんでした。家族を離れ、ふるさとを捨てて旅されたイエスさまには見えたのです。永遠の命を受け継ぐために必要だと思われた伝統、掟、そして財力などは、与える側の神様からしてみれば意外とどうでもいいことであるということ。「その証拠に、それが―切ないこんなわたしでも、こうやって生かされていたじゃないか、愛されていたじゃないか」と、イエスさまは自分の生き様から示してくださっています。生かされていること、それ自体が既に莫大な富であること、わたしたちは今日思い起こしたいのです。

 それは教会にしか語れない、不思議な富です。地上では取るに足らないけれど、神様には何よりも貴いものと映るのです。自分の家族との中に、仲間との中にあるその富に、心を向けてみましょう。

前回 目次へ 次回