十字架への道

2010年3月21日説教 原田 史郎牧師

マルコによる福音書 14章32~42節

 

 主イエスと弟子たちは、ゲッセマネ(油絞りの意)に来ました。主は、ペテロたち3人の弟子をそこに残されると、地面にひれ伏して、祈り始められます。「アッバ、父よ、この杯をわたしから取りのけてください」。杯には、詩編23編の「わたしの杯は溢れます」といった、祝福の杯もありますが、ここでの杯は、「苦しみの杯、神の怒りの杯」であります。そのすさまじさは、ヤコブたちに、「わたしが飲む杯を飲むことが出来るか」(10:38)と言われた、主の気迫に満ちた言葉に窺うことが出来ます。

 この時、主がご覧になっていたものは、罪に対する神の徹底した審きでした。父との交わりを絶たれ、神の審きの対象とされる、過酷な非惨さであります。そして「死ぬばかりに悲しい」と言われたことの中に、かくまで深いわたしたち人間の罪の非惨を、主は見ておられたのです。

 誰が、この恐るべき過酷な絶望の十字架を担い得ることが出来るでしょうか。マリアもかつて、天使の受胎告知に当惑しました。彼女にとって、告知を受け入れることは十字架への道でした。しかし、今、主イエスが直面しておられる十字架は、その比ではありません。人間の決定的な絶望と悲惨の極致がそこにあるのですから。

 しかし、主は、「わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」と祈られました。このようなことが、三度繰り返されたとき、「立て、行こう」と言われます。主は、十字架の道に決然と歩み出されます。この「行こう」というのは、英語では「アップ・レット・アス・ゴー」(改訂標準訳)です。弟子たちにも進むことを促がされました。わたしたちにもまた、主の道を「立て、行こう」と呼びかけられているのです。

前回 目次へ 次回