夕暮れになお光あり

2010年5月16日説教 原田 史郎牧師

Ⅱコリント信徒への手紙4章16~18節

 

 本日は、にじのいえの送別礼拝として守ります。1984年に同敷地内に礼拝堂が建てられ、そこから地域に広げられた礼拝から南房伝道所が誕生しました。此の度、にじのいえは、青梅にある信愛荘と合併して、館山から離れることになりました。わたしたちとしては、淋しいことですが、にじのいえの方々のためには、祝福を祈りたいと思います。

 使徒パウロは、「わたしたちの「外なる人」は衰えていく」と言います。この「外なる人」は生まれつきの自然的人間のことで、それはまた、「土の器」とも言い表されます。粗末で壊れやすい、価値の無い罪多き器です。しかし同時に、器が陶器師によって造られたように、この粗末なもろい器もまた、神さまの手によって造られました。このような「外なる人」は、歳を加えると共に衰えていきます。

 しかし、「『内なる人』は、日々新たにされています。」と使徒は続けます。この「内なる人」とは、キリストによって新しくされた人のことであります。パウロは、艱難を受けましたが、キリストに結びつき、キリストを見上げる時、地上の艱難は、それと「比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれる。」ものとなると言います。

 聖テレジアは、最期の苦しい息の中で「わたしはこの方(主キリスト)を愛します。」と言いました。その時、苦しみは取り去られ、大いなる平安が彼女を覆いました。キリストを見た彼女は、喜びを持って天国へと旅立ったのでした。

 「夕べになっても光がある」(ゼカリヤ14:7)とあります。夕暮れは、夜を前にした暮れなずむ時です。しかし、神さまは、イエス・キリストによって、人生の最後の時まで輝かしてくださいます。にじのいえのスタッフをはじめ入居の方々の上に、これからも主の豊かな恵みがあり、夕暮れになお、輝くものとなりますようお祈り致します。

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